5話 殿下、婚約は破棄してください!
「……本当に、歩くだけなんですね?」
「そうだ。体力を見るために軽く体を動かすだけだからな」
アルディン殿下はそう言って、何事もないように歩き出した。僕は慌ててその後ろに続く。
王宮の庭園は、見渡す限り緑の世界だった。
整えられた芝生に、白い石畳の小道。歩くたびに花壇の花の香りがふわりと漂って、胸の奥がすうっと軽くなる。
「……すごい。綺麗だし……広いですね。歩いてるだけで、なんだかふわふわした気分になります」
思わず感嘆の声をもらすと、殿下は少しだけ顎を上げて遠くを見た。
「ここは西の庭だ。東には温室もある。南は訓練場、北には厩舎がある」
落ち着いた声で淡々と説明してくれるけれど、なんだか少しぎこちない。こんな風に案内することに慣れていない感じがして、ちょっとだけ可愛いかも、と思ってしまう。
「わあ、本当に広いんですね。一人で歩いたら、道に迷いそうです」
見ているだけで気分が浮き立って、歩く足まで軽くなった。
……なんて、そんな風に思っていたのに。
最初は余裕だった。殿下の背を追いながら、花々を眺めて、小鳥の声に癒やされたりして。
だけど、二十分、三十分……四十分。
……おかしい。
まだ歩いてる。というか、終わりが見えない。
日差しはじりじりと強くなり、靴の中はほんのり蒸れてきた。庭はどこまでも美しいけれど、今はそれどころじゃない。
「ひ、広いですね……ほんとに……」
「そうだな」
殿下の返事はいつも通り短く、そして驚くほど平然としている。息ひとつ乱れていないし、汗もかいていないし、歩幅もまったく変わらない。
(……え?もしかして、殿下だけ別世界にいる?)
そんなありえない疑問が浮かぶくらい、殿下は涼しい顔で前を進んでいた。
一方僕は、もう足の裏が痛い。けど、弱音を吐くのも格好悪い気がして、口をつぐんだ。
……でも、やっぱり、疲れるものは疲れる。
あとどれくらい歩くんだろう。そんなことを考えていたら、隣からふいに声がした。
「……疲れたか?」
「い、いえ!まだ大丈夫です!」
「そうか」
一拍おいて、殿下が小さく口角を動かした。
「なら、もう少し歩けるな」
あ、やばい。強がらなければ良かった。
でも、不思議なことに、殿下の声は少しだけ柔らかかった気がする。
「……殿下は、毎日こんなに歩いてるんですか?」
「いや。だが、運動すれば食事が美味くなるだろう」
「……はっ!確かに!」
思わず声が弾んだ。疲れても、その分ご飯が美味しい――なんて最高なんだ!
「ということは、この散歩のあとに……昼食ですか!?」
「……そうだな」
「やった……!」
嬉しさのあまり、思わず小さく拳を握る。殿下は横目でこちらを見ただけで、何も言わずに歩みを続けた。
風が通り抜け、金の髪がさらりと揺れる。差し込む光に、その横顔が一瞬、まぶしいほどに見えた。
(……やっぱり、かっこいいなぁ……)
さすがは王子様だ。つい見とれてしまう。
でもすぐに、足のじんわりした痛みで現実に引き戻された。
「……あの、殿下」
「なんだ」
「そろそろ、お昼……ですかね?」
「まだ朝だ」
がくっと、小さく項垂れる。
でも、殿下の声にはほんの少しだけ楽しげな音が混じっていた気がした。
どれくらい歩いたころだろう。
僕たちは、庭園の奥にある噴水の前へ来ていた。白い大理石の縁に、陽を受けた水がきらめいている。
殿下はそこで足を止め、僕に視線を向けた。いつもと同じ無表情なのに、なぜか少し落ち着かなくなる。
「……ルイス」
名を呼ばれて、思わず背筋が伸びる。低く落ちた声が、やけに胸の奥に響いた。
「俺は――正直、これまで婚約者と呼ばれる者たちにうんざりしていた」
「えっ……?」
殿下は噴水の縁に手を置き、ゆっくりと言葉を続ける。
「皆、俺に取り入ろうとしていた。王家の地位、財産、権力……そういったものにしか目が向いていない。男の候補もいたが、本質は変わらなかった」
その声は淡々としているのに、どこか重たい。いつも冷たい印象の声が、今だけ少しだけ苦しそうに聞こえた。
「だが……お前は違うな」
「え?」
「俺を前にしても必要以上に萎縮せず、媚びる様子もない。話していると、妙に気が楽になる」
胸がどくんと鳴り、熱が一気に頬へ集まる。
だって、殿下の横顔があまりにも真剣で。
「そんなお前が――」
「あ、あの!でも!」
慌てて声を上げた。
このまま続けられたら、なんだかとんでもない誤解が生まれそうな気がしたからだ。
「ぼ、僕……僕も、同じかもしれません。だって……料理目当てでしたし」
風が、ぴたりと止んだ。噴水の水音だけが、妙に大きく耳に届く。
「……料理目当て?」
殿下の眉がわずかに動いた。
「は、はい……あの、王宮のご飯がすごいって父が言ってて……それで、気づいたら来ちゃってたというか……」
一気に言い切ってしまい、はっと口を閉じる。
殿下はしばらく無言で僕を見つめ――そして、ふっと小さく息を漏らした。
「……くだらんな」
「す、すみません……」
反射的に謝ると、殿下は視線を外したまま続ける。
「だが、悪くない」
「えっ?」
「少なくとも、自分を飾らない。これまでの婚約者たちより、よほど誠実だ」
思いがけない言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。まさかそんなふうに言われると思っていなくて、どう受け止めていいのか分からない。
(……誠実、って)
その言葉だけが、頭の中に残る。自分では意識したこともない評価だった。
一瞬だけ、殿下の隣に立っている自分を想像しかけて。
――すぐに、違うと分かる。場違いだと、はっきり思ってしまった。
「……でも、殿下」
「なんだ」
「僕みたいなのが、婚約者なんて務まらないと思います。気品もないし、立ち居振る舞いも全然で……」
言葉を選びながら続ける。
「それに、魔力だって強くありませんし……」
殿下が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。その眼差しは、まっすぐに光を宿している。真剣すぎて、思わず息を詰めた。
「……だ、だから」
喉がひくりと鳴る。
「この婚約は――破棄してください」
その瞬間、空気がぴんと張りつめた。噴水の水音すら、遠のいた気がする。
「……婚約破棄、だと?」
低く落とされた声は静かで、けれど否応なく胸の奥まで響いた。
「そ、そうです。だって僕なんか、殿下のお役に――」
「お前が」
言葉を遮るように、殿下が告げる。
「俺を、拒むというのか」
深い青の瞳が、わずかに揺れた。怒りではない。戸惑いと、信じがたいものを見る色。
「え!?ち、違います!拒むとかじゃなくて、その……!」
「……軽々しく口にするな」
鋭く放たれた声に、思わず息を呑む。噴水の水しぶきはきらきらと陽を弾いているのに、殿下の纏う気配だけが、ひどく冷たかった。
(……あれ?なんで、こんな空気に?)
さっきまで、お昼ご飯何かなーって呑気に考えていたのに。
心臓がばくばくと暴れる中、殿下は一歩詰め寄り、僕の腕をぐっと掴んだ。
「いいか、ルイス」
低く、強く名を呼ばれただけで、息が止まる。
「お前の言葉は、冗談では済まされない」
鋭い瞳が、逃がさないとでも言うように僕を射抜いた。
「……覚悟して言ったのか?」
怖いのに、目が離せない。
――これ、たぶん。いや、間違いなく。
僕、盛大にやらかした。




