4話 殿下、朝ご飯って大事ですよね!
目を開けた瞬間、天蓋の金刺繍が視界いっぱいに広がった。
ふわりと体を包む羽毛布団、淡く香る寝具の匂い。
――どうやら朝らしい。
(……なんで、もう朝なんだろう)
記憶がところどころ抜けていた。ぼんやりした頭を押さえながら、昨夜のことを必死にたどる。
「……確か、昨日の夜殿下が部屋に来て、それで……」
そこまで思い出した瞬間、昨夜の光景が急に頭の中へ流れ込んできた。
(あれ……僕、キス、された……?)
心臓がどくんと跳ねる。寝起きでぼんやりしていた頭が、一気に覚醒した。
「……そ、そうだ。婚約者、だから……そういう……」
布団を頭までかぶって、もぞもぞと悶える。寝具の中が急に熱い。空気が足りない。
婚約って――つまり将来は結婚するってことで、結婚したら……。
(そうしたら、ああいうことも、する……のか?)
考えた途端、昨日の感触がやけに生々しく蘇ってしまう。心臓の音が、さらにうるさく跳ねた。
(い、いや、でも、別に愛し合ってるとかじゃないし……)
必死に落ち着こうとしたその瞬間、さらに厄介な考えが閃く。
(……あれ、でも、結婚したら、もしかして子どもとかできる……!?)
がばっと布団から飛び起きた。朝の光がやたらとまぶしい。思わず天を仰ぎながら、ひとりで混乱する。
(ちょ、ちょっと待って!?僕、男なんだけど!?)
そこで、ふいに嫌な記憶が脳裏をかすめた。
(……でも確か……王家の血筋は特別で、男性同士でも子どもを授かることがある、とか……そんな伝承を昔聞いたような……?)
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
(ちょ、ちょっと待って、本当に……?僕が……?それって……どうなるの……!?)
声にならない悲鳴が胸の中を跳ね回る。耐えきれず、枕に顔を押しつけて足をばたつかせた。
(い、いやいや、違う!そもそも、婚約はそのうち破棄になるんだから……!子どものことなんて考えなくていい……!)
これ以上考えたらだめだ、と必死に頭を振る。
そんなふうにひとりで大混乱していると――コンコン、と扉を叩く音が響いた。
「ルイスさま、お目覚めでございますか?」
やわらかく落ち着いた声が扉越しに届く。昨日、身の回りの世話をしてくれた、ばあやさんだ。
「お、おはようございます!」
慌てて上体を起こして応じると、ばあやさんはにこやかに部屋へ入ってきた。
「まぁまぁ。お顔が真っ赤でございますよ。殿下がお見えになってから、お疲れが出たのですねぇ」
「い、いや、その……!昨日の夜、ちょっと色々あって!」
「まぁ。色々……ございましたのねぇ」
いつもの穏やかな微笑みなのに、全部見透かされている気がしてしまう。胸の奥がざわついたまま、つい勢いで口が滑った。
「あの、ばあやさん。殿下って……婚約者の部屋に来るのって、よくあることなんですか?」
ばあやさんは一瞬だけ目を瞬かせ、それから懐かしむように微笑んだ。
「いいえ。殿下が夜に婚約者候補さまのお部屋を訪ねられたのは――初めてでございますねぇ」
「……っ、え?」
「殿下は小さい頃からとても礼儀正しくていらして。誰かのお部屋に勝手に入るなんて、決してなさらなかったのですよ」
柔らかい笑みのまま、ばあやさんは楽しそうに目を細めた。
「……初めてって……そんな……」
ばあやさんの言葉が胸の奥で何度も繰り返されて、頭の中がぐるぐるする。
(じゃあ、どうして僕の部屋だけ?誰にでもああいうことしてるんじゃ、ないの……?)
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになって落ち着かない。
「ルイスさま、朝食のご用意ができておりますよ」
ばあやさんの声は、どこか救いのように聞こえた。
「……あっ、は、はい!行きます!」
(いったん、ご飯!!)
思考を強制終了させるみたいに、心の中で叫んだ。
「えへへ、ご飯だ~!」
口に出した途端、胸のもやもやがほんの少し遠のいていく。立ち上がって支度を始めながら、無理やり自分に言い聞かせた。
(そうだ、ご飯を食べれば元気が出る。朝ご飯は裏切らない!深く考えるのは後!今は食べる!)
雑な解決だという自覚はありつつも、今はとにかくそれ以外を考えないようにする。ばあやさんに案内されながらずんずん廊下を進んだ。
食堂の扉が開かれた瞬間、視界がぱっと明るくなった。
朝の光が窓から差し込み、金の皿に反射してきらきらと輝いている。その上には、ふわふわのオムレツと、香ばしいベーコン、そして焼きたてのパン。目に映るだけで幸せになれる光景だった。
「……すごい。朝からこんなに豪華なんて……」
思わず感嘆の声が漏れる。さっきまでの悩みが本当に幻だったんじゃないかと思うほど、心が一気に晴れた。
椅子に腰を下ろそうとしたその時――
「殿下がお見えです」
執事の声に、びくっと肩が跳ねた。振り向くと、殿下が静かな足取りで入ってくる。
昨日と変わらない冷静な表情――なのに、一瞬視線が合っただけで、胸がどきっとする。
「……おはようございます、殿下」
「おはよう」
淡々と返す殿下。そして、当然のように僕の隣へ腰を下ろした。
(えっ、広いんだから隣に座らなくても……!)
妙な緊張で背筋が伸びる。
……けど目の前のごちそうの香りがすごい。緊張と食欲がせめぎ合い、結果、食欲が勝った。完全に勝った。
「……あの、えっと……」
「早く食べたいのだろう。遠慮せずに食べればいい」
ぐさりと図星。周囲で控えていたばあやさんが口元を押さえてくすくすと笑っている。
――恥ずかしい!でも美味しそう!
「じゃ、じゃあ……い、いただきます!」
勢いで手を合わせると、殿下もそれに倣うように小さく「いただきます」と囁いた。
フォークを手に取って一口食べた瞬間、幸せが一気に押し寄せてきた。ふわとろの卵が舌の上でほどけ、香ばしいバターが香る。パンは外がカリッとしていて、中はもっちり。
「おいしい……!なんだこれ、幸せの味がする~」
気づけば夢中でフォークを動かしていた。次の皿、また次の皿、と視界の端にあるものすべて食べてしまう勢いだ。
「……気に入ったようだな」
ふいに殿下の低い声が耳に落ちてきた。顔を上げると、殿下がこちらを眺めている。表情はいつもの無表情――だけど、口元がわずかに持ち上がっている気がする。
「い、いや!別にそんなことは……っ」
がっついていると思われないように慌てて否定したのに、その間にもフォークはしっかり料理に刺さっていて、自分が一番驚いた。殿下の眉がほんの少しだけ上がる。
「言葉と行動が一致していないぞ」
(うわああああ恥ずかしい!)
頬が熱くなるのに、食べる手は止まらない。おいしすぎるのが悪い。
「お、おいしいから仕方ないんです!」
勢いで言い返すと、殿下は今度こそほんの一瞬だけ目を細めた。笑った――のかな?
いや、違う……なんていうか、子どもが好きなものを見つけてはしゃいでるのを見守る感じだ。恥ずかしい。でもおいしい。
「気に入ったなら、これからも朝食に出させよう」
さらりと殿下が言う。
「えっ!そ、それは……えっと……」
嬉しいけれど、調子に乗っていると思われるのも恥ずかしい。けれどその間にも口の中は幸福でいっぱいで、結局また一口。
殿下が横で食事に口をつける気配がして、ふと横目で見る。無表情のまま、落ち着いた所作でナイフとフォークを扱う殿下。
ふと、殿下の視線がこちらへ向く。目が合ってしまった。心臓がどくりと跳ね、思わずフォークを止める。なぜか、殿下から視線をそらせない。じっと見つめられると、昨日の夜、キスされたことをふいに思い出してしまって――
(やばい、思い出すな、絶対思い出すな……!)
じわじわと顔が熱くなっていく。
(落ち着け僕!今は食事!大切な朝ご飯の時間!)
慌てて皿へ意識を戻し、勢いよくフォークを突き立てて口に運ぶ。殿下の視線から逃げるために食べたけれど、料理は完璧においしくて、そのまま食べ続けてしまう。
もぐもぐしていると、殿下が静かに口を開いた。
「食欲は問題ないようだな。今日はこのあと歩くぞ」
「へっ?歩くんですか?」
「そうだ。魔獣討伐に向かう前に、お前の体力を確認する」
魔獣討伐。そういえばそんな話があった。
「わ、わかりました!この後歩くんですね!……えぇっと……」
返事をしつつも、視線は勝手にテーブルへ。皿の上にはまだ料理が残っている。
なんとなく朝ご飯はそろそろ終わりの空気が出ているけれど、もう食べちゃいけないんだろうか……。
視線を料理へ、殿下へ、また料理へ……と忙しなくさまよわせていたら、殿下がわずかに息を吐いた。
「……まだ食べていいぞ」
「えっ!?い、いいんですか!?」
思わず声が裏返った。殿下は無表情のまま首をわずかに傾ける。
「歩く前にしっかり栄養を取っておくのがいいだろう」
「やったー!じゃあ遠慮なく!いただきます!」
勢いよくパンを頬張った瞬間、頭の中がまた幸せでいっぱいになった。
殿下は横で静かに紅茶を口にしながら、こちらをちらりと見る。
「……本当にわかりやすい男だな」
「えっ!?ほ、褒められてます?」
「さぁな」
言葉は淡々としているのに、ほんの一瞬だけ目の端がやわらかくなった気がした。
そんな変化には気づきつつも、今はとにもかくにも食事が最優先。
すべての悩みと昨夜のキスの記憶すら一旦脇に押しやって、僕は皿をきれいに平らげた。
「……よし!元気いっぱいです!歩けます!」
胸を張って宣言すると、殿下はすっと立ち上がった。
「では、十分後に出発だ。着替えて待て」
「はいっ!」
僕が返事をすると、殿下は無言で一度だけこちらを見る。その一瞬だけ絡んだ視線に、なぜか胸がひゅっと跳ねた。
(……え、なに、今の視線……)
今までより、少しだけ表情がやわらかく見えた気がして……なんだか胸の奥がそわそわする。
僕が動揺しているうちに、殿下はもう背を向けて歩き出していた。
「さあルイスさま、着替えましょう。一度お部屋へ」
ばあやさんの声にハッとして、慌てて席を立つ。
「おいしいご飯、ごちそうさまでした!」
勢いよくお皿に向かって頭を下げると、ばあやさんがくすっと肩を揺らした。
「ふふ、朝食をお気に召していただけて何よりです。――殿下も、嬉しそうでしたよ」
「えっ!?僕そんなに顔に出てました……?というか殿下、嬉しそうだったんですか?」
「ええ。あんなふうに見守る殿下を見たのは初めてでございましたよ」
(見守る……殿下が……僕を!?)
いったいどんな状況だったんだろう。
ぱくぱく食べてる僕を、あの無表情でじっと……?
想像しただけで、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「うぅ……絶対、呆れてましたよね……僕、がっつきすぎてた気がするし……」
「いいえ、とても微笑ましゅうございましたよ。殿下も、きっとそう思われていたはずです」
慰められているけれど、恥ずかしくて胸がむずむずする。
でも――不思議と、足取りは軽かった。
朝ご飯パワーに満たされて、やる気がむくむく湧いてくる。
「よし……!着替えたら、頑張って歩くぞ!」
気合を入れ直し、僕は着替えのため自室へ向かった。




