3話 殿下、これっておやすみの挨拶ですか?
湯気の香りがまだ髪に残っている。
ふかふかの寝間着に着替えて、広すぎるベッドの上で思わずため息がもれた。
……幸せって、こういうことを言うんだろうなぁ。
昼食に引き続き、夕飯もまるで天国みたいだった。お皿の上で金色に焼けたお肉がきらきらしていて、口に入れるたびに幸せが広がる。しかも、デザートまで三種類もあって、好きなだけどうぞって言われた。
食後に連れてこられたこの部屋も、すごく豪華で、天井にまで細かな彫刻が施されている。お風呂なんて、本当に泳げそうなくらい広かった。
(これ、夢じゃないよね……?)
思わず頬をつねる。痛い。ちゃんと現実だ。
「ルイスさま、湯冷めなさいませんように」
ふわりと毛布を掛けてくれたのは、落ち着いた声の年配の女性――ばあやのエリサさんだ。
小柄で丸みのある背中、髪はきちんとまとめられていて、少しだけハーブの香りがする。
「ルイスさま、あのような大広間で召し上がるのはお疲れだったでしょう」
「いえ!全然!とても楽しかったです!」
王様のお話は難しかったけど、ご飯は最高だったし、みんな丁寧で優しかった。
「そうでございますか。……殿下が、誰かと同じ卓を囲まれるのは、ずいぶん久しぶりでして」
「え、そうなんですか?」
少し意外に思って目を丸くすると、ばあやさんはどこか遠くを見るように目を細めた。
「ええ、成長なさってからは、おひとりで召し上がることが多くなりましてねぇ」
「そうだったんですね」
「ふふ、でも幼いころは、よくわたくしの作ったスープを『もう一杯』とおねだりなさっていたんですよ」
思わず瞬きをする。あの無表情で冷たい殿下が、スープをおねだり……?
「全然、想像できないですね」
「ふふふ。皆さまそうおっしゃいます。でも、殿下は本当に優しい子でございました」
ばあやさんは懐かしそうに笑って、ベッドの端を整えた。その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥がじんわり温かくなってくる。
(あの殿下にも、そんな時代があったんだ……)
「さあ、そろそろお休みの支度を――」
ばあやさんの言葉が途中で途切れた。扉の向こうから、重い足音が聞こえてくる。
そして、ノックもなくドアが開いた。
「殿下……っ!?」
驚きの声が勝手に漏れる。ばあやさんが反射的に身を引き、慌ててお辞儀をした。
「夜分に失礼しております、殿下」
「構わない」
低く落ち着いた声が、静かな部屋によく響く。
アルディン殿下は何のためらいもなく部屋の中へと入ってきて、ゆっくりと僕のほうを見た。
濡れたような金の髪が灯りを受けて輝いている。湯上がりでだらけていた僕とは対照的に、彼はきっちりした服装のままだった。
部屋の空気が、一気に引き締まった気がする。
「え、あの……どうされたんですか?」
慌てて立ち上がると、殿下は当たり前のような口調で言った。
「同じ屋根の下にいる婚約者だ。夜に顔を見に来て、何かおかしいか?」
「は、はぁ……」
さっきまでのふかふかした眠気が、どこかへ吹き飛んだ。
ばあやさんはそんな僕たちを見て、あらあら、と小さく笑った。
「まあまあ、お若いお二人ですものねぇ」
そして穏やかに微笑みながら、殿下に深く頭を下げる。
「殿下、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。ルイスさまのこと、よろしくお願いいたしますね」
「ちょ、ちょっと待ってください!ばあやさん!?えっ、どういう――!」
焦って声を上げたけれど、ばあやさんはやけに微笑ましそうに手を振り、静かに扉を閉めた。
途端に、部屋の中に音がなくなった。
さっきまで優しく満ちていた湯の香りが、急に遠くなった気がする。かわりに、僕の鼓動だけがどくどくとうるさく響いた。
殿下は無言のまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。床を踏む靴音が、やけに静かな部屋に響いて――そのたびに僕の背筋がぴんと伸びた。
(え、なにこれ……なんか、怒られる……?)
殿下は僕の目の前まで来ると、淡々とした声で言った。
「少し話がある」
静かな声音なのに、逆らえる空気がまったくない。僕は小さくうなずくことしかできなかった。
アルディン殿下は、机の前に立ったまま僕を見据えていた。その視線は氷のように冷たいのに、不思議と目を逸らせない。
「お前は、本当に婚約者という立場を理解しているのか?」
静かな声音だったのに、その一言は胸の中心を鋭く突き刺した。喉がひゅっと縮んで、慌てて言葉をかき集める。
「えっと、その……理解、は、してるつもりです!……ええと、たぶん」
語尾が勝手に弱くなっていく。情けないことに自分でもわかるほどしどろもどろだ。
殿下の眉が、ほんのわずかに動く。
「たぶん、では困る」
「え、えっと……」
(な、なんだろう。怒られてるのかな。どう答えたらいいんだろう……)
心臓がばくばく暴れ出したその瞬間――
「お前は今日一日、ずっと食事のことしか考えていなかったな」
「ぎくっ」
変な声が勝手に漏れた。しまった、と思った時にはもう遅い。
殿下の目がすっと細くなる。静かで、澄んでいて、逃げ場がない。
「まるで婚約という名目で、王宮の料理を食べに来ただけのようだった」
「そ、それはそう……い、いや、違います!あの……料理がすごくて……えっと、さすがお城だなって感動して!」
「褒めていたのは料理人の腕だけだったな」
「うぐっ……」
何も言い返せない。だって、本当に料理のことしか話してなかった。
殿下が一歩、近づく。ほんの一歩なのに、息が詰まりそうになる。
「婚約者とは、ただ名ばかりの関係ではない。立場を並べて座り、国の未来を共に考える相手だ」
「そ、そうですよね!僕もそういう話、いつかちゃんと――」
「それに」
殿下の声が、一段低く落ちた。視線を合わせた瞬間、その場に縫い止められたみたいに動けなくなる。彼の瞳は、真っすぐに僕だけを捉えていた。
「婚約者というのは、こういう関係でもある」
「……え?」
意味を理解するより早く、殿下の手が僕の顎をそっと持ち上げた。
冷たいわけでも、荒っぽいわけでもない――それなのに触れられた瞬間、全身がびくっと震える。
次の瞬間。
唇に、やわらかな感触が落ちた。
ほんの一瞬。それだけ。
だけど、心臓が身体の中で暴れるみたいに跳ねた。呼吸を忘れ、眩暈を起こしそうになるほど頭の中が真っ白になる。
それなのに、離れるのはあっけないほど早かった。触れた温度だけを残して、殿下は静かに距離を取る。止まっていた呼吸が、そこでようやく戻ってきた。
「……え、えっと……えっ!?そういう……!?」
やっと絞り出した声が、裏返ってしまう。
「そういうことだ」
淡々と告げる声は、いつもどおり冷静だった。僕だけがひとりで慌てて、追いつけていない。
「婚約者とは、将来結婚し、肩を並べる伴侶になることだ」
「伴侶……!そ、そうですよね、たしかに……」
動揺して口ごもる僕の声を遮るように、殿下の声が静かに落ちる。
「……今日はもう休め」
殿下はそれ以上何も言わず、ゆっくりと踵を返した。扉が閉まると、途端に部屋がやけに静かになる。
(……い、今のって、なんだったの……!?)
頭がぐるぐるする。顔は熱いし、心臓はうるさい。だけど――。
(唇……すごく、柔らかかった……)
思い出した途端、布団を被って転がる。声にならない悲鳴が喉の奥に詰まった。どうしてこんなことになっているのか分からない。
完全に眠気が吹き飛んだ夜だった。




