14話 殿下、胸がすごく苦しいです!
崖の上の気配が、形を持って落ちてきた。
土と石を蹴散らしながら、巨大な影が斜面を滑り降りる。四肢で無理やり踏みとどまり、岩を砕きながら一直線に距離を詰めてくるその姿は、もはや獣というより災害だった。
「下がれ!」
殿下が僕の肩を掴み、無理やり後ろへ押しやる。
傷ついた足で踏ん張る音が聞こえた。無理矢理立っているだけでも痛むはずなのに、前に出るのをやめない。殿下の背が、完全に僕の前を塞ぐ。
グレイヴウルフの赤い瞳が細まり、低く唸った。
次の瞬間、跳んでくる。空気が裂け、巨大な影が視界を覆い尽くした。
(間に合わない……!)
そう思った瞬間、殿下が腰から短剣を抜き放った。
僕を助けるために剣は投げ出してしまっている。手にあるのは、護身用の予備の短剣だけだ。
でも、あの速さで突っ込んでくる巨体を、短剣だけで止めきれるはずがない。
「離れろ、ルイス!」
叩きつけるような声と同時に、体が強く押された。
殿下が、自分から魔獣の正面へ踏み込む。傷ついた足を引きずりながら、それでも一歩も退かない。
(だめだ)
嫌な予感が、全身を駆け抜ける。
何でもいい、とにかく動かなきゃと思って後ずさった足が、何かに引っかかった。
「えっ!?うわぁっ」
間の抜けた声と同時に、盛大に転んでしまう。その拍子に、ポケットの中身が地面へ飛び出した。ころん、と小さな包みが転がる。布がほどけ、中から丸い焼き菓子が顔を出した。
今朝、ばあやさんに教わりながら焼いた試作品だ。お腹が空いた時に、殿下と一緒に食べようと思ってこっそり持ってきていた。
それが、ころころとグレイヴウルフの足元へ転がっていく。
「あっ……」
こんな時に、いったい僕は何をやっているんだろう。呆然と固まっていると、グレイヴウルフの鼻先がぴくりと動いた。
次の瞬間。地面をえぐる勢いで突っ込んできていた巨体が、目の前で不自然なほど唐突に止まる。土が跳ね上がり、前脚が深くめり込んだ。あと半歩でも踏み込んでいたら、僕たちはそのまま押し潰されていた距離だ。
赤い瞳が、すっと下を向く。視線の先には、転がった焼き菓子。
「……へ?」
間抜けな声が出てしまう。
グレイヴウルフは低く唸りながら、獲物を見失ったようにその場で動きを止めた。焼き菓子へ向けられた視線は、何かを警戒しているように揺れている。
その一瞬の隙を、殿下は逃さない。
空気を裂く鋭い音とともに、投げ放たれた短剣が一直線に走る。刃は寸分の狂いもなく魔獣の喉元へ突き刺さった。
巨体がびくりと跳ね、声にならない呻きを漏らす。次の瞬間、支えを失ったように崩れ落ち、重たい衝撃が地面を揺らした。舞い上がった土煙がゆっくりと広がり、それが晴れるころには、森は嘘みたいに静まり返っていた。
僕はしばらく動けなかった。
目の前に横たわっているものが、ついさっきまで僕たちを殺しかけていた存在だと、頭が理解するまで時間がかかる。
すぐ隣で、殿下の荒い呼吸だけがやけに鮮明に響いていた。
「……殿下」
息を詰めるようにして声をかける。
返事がないことに心臓が跳ね、慌てて顔を向けた。
殿下はその場に立ったまま、短剣を投げた姿勢のまま動かずにいる。肩で大きく息をしながら、それでも周囲を警戒する視線だけは鋭い。
やがて僕と目が合い、短くうなずいた。
「無事か」
「は、はい……僕は」
声が震えているのが自分でも分かる。転んだ拍子に少し擦ったくらいで、痛みはほとんどなかった。
それよりも。
「殿下こそ……!」
駆け寄った瞬間、改めてその姿が目に入って息を呑む。
崖から落ちた時についた傷だけでも十分ひどかったのに、無理に動いたせいで足の傷口がさらに開いていた。服の裂け目から滲む血の量も、さっきより増えている気がする。呼吸をするたび、わずかに肩が揺れていた。
「大したことはない」
先回りするように告げる声は落ち着いている。けれど、足元だけは誤魔化せていなかった。体重をかけないようにしているのか、無意識に片足を浮かせている。
「……全然、大したことあります」
殿下は一瞬だけ困ったように眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。
「お前が無事なら、それでいい」
その言い方があまりにも当然みたいで、胸の奥が強く締めつけられる。
自分なんかを守るために、この人は迷いなく崖へ飛び込み、あの魔獣の前にも立った。
その結果が、この傷だ。
喉の奥が詰まる。僕なんかのために、こんな――。
視界の奥がじわりと滲む。胸の内側で、何かがぐちゃぐちゃにかき混ぜられるみたいに痛い。
怖かったはずなのに、それより先に込み上げてくるのは、どうしようもない後悔と、熱に似た感情だった。
「……いやだ」
殿下の苦しそうな顔を、これ以上見たくない。
今にも倒れそうな殿下の腕をぎゅっと掴む。そのまま離すまいと、無意識に力がこもっていた。
その瞬間――指先が、ふっと熱を帯びる。
「……え?」
遅れて、自分の手が淡く光っていることに気づいた。柔らかな光が、滲むように殿下の体へ広がっていく。殿下が、驚いたように目を見開いた。
「ルイス、お前――」
呼ばれた声が、ひどく遠い。
胸の奥で、何かが弾けるみたいに脈打って、熱が一気に全身へ流れ込んだ。
止め方が、分からない。
「……な、なに、これ……」
震える声が、自分のものだと理解するのに一瞬かかった。手のひらから溢れる光は、生き物みたいに僕の鼓動に合わせて脈打っている。
(え?……これ、どうなって――)




