13話 殿下、なんで庇ったんですか!
落ちる。
そう理解した瞬間、世界が音を失った。
風の感触だけがやけに鮮明で、体が空に放り出されたまま、時間が止まったような感覚。
(あ、これは――)
もう、だめだと思った、そのとき。
「ルイス!!」
名前を呼ぶ声が、空気を切り裂いた。
同時に、強い力で引き寄せられ、そのまま胸の中へ抱き込まれる。殿下の腕だ、と気づいた時には視界が激しく回転していた。
上下の感覚は失われ、体は何度も斜面に叩きつけられる。土の匂いが鼻を突き、湿った草が肌をかすめた。
何がどうなっているのか分からない。それでも——殿下が僕を抱き込んだまま離さないことだけは分かった。僕に来るはずの衝撃を、殿下が先に受けている。なのに、抱き込む腕は少しも緩まなかった。
やがて、体が前へと投げ出されるように放り出される。次の瞬間、強い衝撃とともに、ようやく動きが止まった。
しばらく、呆然と横たわる。耳鳴りと、自分の荒い呼吸だけが、異様に大きい。
(……生きてる?)
恐る恐る指先を動かすと、腕も、脚も、ちゃんと感覚があった。崖を転がってきたはずなのに、あまりにも痛みが少なすぎる。
「……ルイス」
すぐ近くで、かすれた声がした。
「っ、殿下!」
殿下は地面に片膝をつき、浅く息をしながら、僕の様子を確かめてくる。
「大丈夫か」
「は、はい、僕は全然……」
自分の体を確かめながら答えると、殿下は張り詰めていたものを緩めるように、ゆっくり息を吐いた。
そして、そのまま視線を自分の体へ落とす。
つられるように僕も視線を向けて――息を呑んだ。
――ひどい。
外套はあちこち裂け、泥と血が滲んでいる。
腕も顔も擦り傷だらけで、鎧の縁は歪み、まともな形を保っていなかった。
「殿下、それ……っ」
言いかけた僕に、殿下はいつもの落ち着いた声で答える。
「この程度、問題ない」
そう言って、軽く肩を回してみせる。
けれど、その動きは、どこか引っかかるように鈍かった。
「これくらい、訓練のうちだ」
平然とした調子のまま、立ち上がろうとした、その瞬間。殿下の体が、わずかに揺れた。
「……っ」
短く息を詰める音が、はっきり聞こえる。
「殿下!」
思わず駆け寄ろうとすると、制するように手が上がった。
「大丈夫だ」
即座に返ってきた言葉とは裏腹に、地面についた足を、かばうように重心を逃がしている。視線の先、ブーツの隙間から、赤黒い染みが静かに広がっていた。
「……足!怪我してますよね!?」
一瞬、殿下は目を逸らし、それから観念したように小さく息を吐く。
「落ちる途中で、岩に引っかけた」
「そんな……!」
「動けなくなるほどじゃない。救助が来るまで、持たせればいい」
その言葉が、胸に重く沈む。
――僕を助けるために。
分かっていたはずなのに、今さら現実のように押し寄せてきた。
あの崖の上で、殿下は一瞬も迷わなかった。剣を捨て、躊躇もなく飛び込んできた。
その結果が、目の前の傷だらけの体と、痛みに耐えながら立とうとする姿。
殿下ともあろう人が。国を背負う人が。
ご飯のことばっかり考えてて、何もできない僕なんかのために。喉の奥がきゅっと詰まり、うまく息が吸えなくなる。
「……なんで」
かすれた声が、勝手に喉から漏れた。
「なんで、そこまで……」
何を知りたいのか、自分でもうまく分からない。それでも、聞かずにはいられなかった。
殿下は不思議そうに眉を寄せ、それから当たり前のことのように言う。
「守ると言っただろう」
ただ、それだけだった。
大げさな言葉も、特別な表情もない。それが当然だというような口調なのに、その一言が胸の奥に深く刺さる。
守ると言ったから守る――ただそれだけのことを、殿下は本気で貫いたのだ。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。心臓が、さっきの落下よりもずっと激しく鳴っていた。
殿下の手が、そっと僕の肩に触れる。怪我だらけの手なのに、その感触は驚くほど優しい。
「怖かったか」
低い声で問われて、うまく言葉が出ない。
怖かった。今もまだ、心臓は落ち着いてくれない。
なのに胸の奥では、それとは別の熱がどんどん大きくなっていく。
この人は、自分の体より先に、僕を守ろうとしてくれた。その実感が、遅れてじわじわと全身に広がっていく。
ちゃんと何か言いたいのに、声が全然出てこない。ただ、殿下のぼろぼろの外套を、無意識にぎゅっと掴んでいた。
その時。
頭上の森から、低く湿った唸り声が落ちてきた。
背筋がぞわりと粟立つ。殿下の視線が一瞬で鋭くなり、僕を庇うように腕を伸ばした。まともに動くのも辛いはずなのに、それでも僕を庇う腕は少しも揺るがない。
次の瞬間、崖の上で木々が激しく揺れ、ばらばらと土が降ってくる。
魔獣の咆哮が、崖の縁から叩きつけるように響いた。




