12話 殿下、これってピンチですか?
街道を抜けて森に入ると、空気が一気にひんやりした。それまでの土埃の匂いが消え、湿った土と青葉の匂いが混ざった空気が流れ込んでくる。
馬車が止まると、聞こえるのは風が枝を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。思っていたよりもずっと静かで、拍子抜けするほどだった。
(……ほんとに、こんなところに魔獣がいるのかな)
物々しい雰囲気を想像していただけに、少し肩の力が抜ける。
「ここが、グレイヴウルフの棲み処です」
案内役の騎士が頭を下げる。
「普段より森の空気が不安定で……念のため、周囲には結界を張っています」
殿下は無言でうなずき、僕の方を振り向いた。
「ルイス。俺の後ろを離れるな」
「は、はい」
さっきより低い声音に、思わず背筋が伸びる。
殿下はそれ以上何も言わず、剣に手を添えたまま、森の奥をじっと見据えた。その横顔はいつもよりずっと険しくて、今さら少し不安になってきた。
(……やっぱり、危ないのかな)
森の空気まで張り詰めている気がして、無意識に息を呑む。
(……でも、殿下がいるから……大丈夫だよね)
そう思った、そのとき。
――ざわり。
風とは違う、何か。
低く重たい気配が、森の奥で揺れた。
殿下がすっと僕の前へ出る。
「……ルイス、何か感じるか」
「えっ……あ、なんか……空気が変……?」
答えた瞬間、殿下の表情がさらに険しくなる。
「通常のグレイヴウルフではない。魔力が乱れている」
その瞬間、森の奥の魔法陣がふっと赤く光り、魔導師のひとりが叫んだ。
「おかしい……結界が――!」
ドンッ、と地面が鳴る。空気がびりびりと震え、獣の咆哮が森を震わせた。
「う、うわぁっ!?」
「ルイス!」
殿下が僕を抱き寄せるようにして庇う。肩へ回された腕に力がこもり、すぐ耳元で低い息遣いが掠めた。
次の瞬間、前方の木々を突き破り、一頭の魔獣が飛び出してきた。
灰色の毛並み。
だが、その体表には赤い線のような紋様が浮かび上がり、脈打つように光っている。瞳も血のように赤い。
「な、なんか……元気ですね!?」
「元気どころの話ではない!暴走だ!」
魔導師たちが慌てて防御陣を展開し、騎士たちが前へと出る。殿下の表情は鋭く、周囲を冷静に見渡していた。
「……妙だな」
低く落とされたその一言に、胸の奥がざわつく。
「本来、グレイヴウルフがここまで魔力を暴走させることはない」
殿下の青い瞳が、森の奥を鋭く探る。魔獣そのものではなく――何か別のものを探しているようだった。
「誰かが、外部から干渉している可能性が高い」
「え……?」
殿下の視線の先を、つられて目で追った、そのとき。
「あっ……」
少し離れた木の根元に、何かが置かれているのを見つけた。森には不似合いな、黒っぽい人工物。細い線のような模様が刻まれていて、じっと見ていると、なんとなく嫌な感じがしてくる。
「……殿下、あそこに何か……」
小さく声をかけた、その瞬間。
木の根に半ば埋もれるように置かれていたそれが、脈打つ心臓のように赤く光を放った。
森の空気が一変したのが、はっきりと分かり、嫌な予感が背筋を這い上がる。
「グルァァァァ――ッ!!」
直後、森を引き裂くような咆哮が轟いた。グレイヴウルフの赤い紋様が、さらに脈打つように輝く。
「ルイス、下がれ!」
低く鋭い声とともに、迷いなく殿下が前へ出た。
剣を抜き、魔獣の注意を引きつけるように僕の前へ立つ。
けれど――魔獣の赤い瞳は、殿下を一瞬だけ捉えたあと、すぐに逸れた。そして、まっすぐ、僕を見る。
「えっ!?」
理解が追いつくより先に、魔獣が動いた。殿下の前を避けるように大きく踏み込み、一直線に距離を詰めてくる。
「うわぁっ!」
反射的に後ずさりしたその瞬間、足元の地面が、嫌な音を立てて崩れた。視界が、ぐらりと傾く。
「ルイス――!」
剣を投げ出して全力で駆け寄って来る殿下を見ながら、僕の体は完全に支えを失い、宙に放り出されていた。




