99:覚悟
東都市ヴァルゼアは崩れ続けていた。
黒門から漏れ出す空間の歪みが、都市そのものを侵食している。
石畳は浮き。
建物は裂け。
空は黒く染まり。
悲鳴だけが絶えず響いていた。
巨大災獣ベルグラは都市中央で蠢いている。
山のような巨体。
幾千もの赤い目。
紫色の霧。
視界に入るだけで、人間の精神を削る存在。
その怪物を前に。
レインは立ち尽くしていた。
腕の中には、小さな亡骸。
守れなかった子供。
軽い。
あまりにも軽かった。
「……っ……」
呼吸が乱れる。
胸が痛い。
胃がひっくり返る。
吐き気が込み上げる。
レインはその場で吐いた。
酸っぱい液体が石畳へ散る。
涙も止まらない。
「……僕が、遅かったから……」
声が震える。
「もっと早ければ……」
セレナは何も言わなかった。
否定しない。
慰めない。
ただ隣へ座る。
血まみれのまま。
傷だらけの身体のまま。
静かに。
レインの横へ。
遠くで爆発が起きる。
兵士たちの怒号。
魔物の咆哮。
全部聞こえている。
それでも。
今だけは、ここだけ時間が遅かった。
「……昔ね」
セレナが口を開く。
低い声だった。
「弟子がいたの」
レインはゆっくり顔を上げる。
セレナは前を見ていた。
「十五歳の女の子」
炎が遠くで揺れる。
「剣の才能があった。生意気で、口も悪くて、でも真っ直ぐだった」
少しだけ笑う。
懐かしそうに。
「私に憧れて冒険者になった」
レインは黙って聞いていた。
「ある日、大型討伐へ連れていった」
セレナの声が少しだけ掠れる。
「まだ早いって分かってた」
「……」
「でも、あの子が泣きながら頼むから」
拳が静かに握られる。
「守れると思った」
その言葉に。
レインの胸が痛む。
「結果は?」
聞かなくても分かっていた。
それでも。
聞かずにはいられなかった。
「死んだわ」
セレナは淡々と言った。
「目の前で」
レインの呼吸が止まる。
「私は間に合わなかった」
火の粉が舞う。
「S級なのに」
銀髪が揺れる。
「誰より強いのに」
そして。
セレナは笑った。
自嘲みたいに。
「守れなかった」
レインは言葉を失う。
この人でも。
守れなかった命がある。
最強でも。
全部は救えない。
「それからね」
セレナは静かに続けた。
「ずっと思ってた」
赤い瞳が少しだけ揺れる。
「私は幸せになっちゃいけないって」
レインの胸が締め付けられる。
この人は。
ずっと背負っていた。
強いから。
生き残るから。
全部抱えてきた。
「……でも」
セレナがレインを見る。
「最近、少しだけ変わった」
「え……?」
「あなたのせい」
レインは目を瞬かせる。
「僕……?」
「そう」
セレナが小さく笑う。
「怖がって、震えて、吐きながら」
「……」
「それでも立つ」
レインは視線を落とした。
そんな立派なものじゃない。
本当は逃げたい。
怖い。
苦しい。
でも。
逃げたくない。
「あなた見てるとね」
セレナは静かに言った。
「まだ諦めなくていいのかもって思うの」
レインの胸が熱くなる。
嬉しい。
でも。
苦しい。
今の自分は、一人守れなかった。
そんな人間なのに。
「……僕、弱いですよ」
「知ってる」
「情けないし」
「知ってる」
「怖いし」
「見てれば分かる」
セレナが少し笑う。
「でも」
その声は優しかった。
「弱いまま立てる人は、案外少ない」
レインは息を呑む。
その瞬間。
地面が揺れた。
災獣ベルグラが再び動き出す。
巨大な前脚が振り下ろされ、都市区画ごと吹き飛ぶ。
悲鳴。
炎。
崩壊。
もう限界だった。
都市は持たない。
レインの鑑定が警告を出し続ける。
【空間侵食加速】
【都市崩壊率:71%】
【推定残存時間:一時間二十三分】
レインは立ち上がる。
脚が震えている。
怖い。
でも。
セレナも立った。
超大型大剣を握る。
傷だらけなのに。
まだ前を向く。
「……行くわよ」
「はい」
二人は歩き出す。
崩壊都市の中心へ。
災厄の方へ。
途中。
避難民たちが見えた。
泣く子供。
怪我人。
必死に人を運ぶ兵士。
皆、限界だった。
それでも動いている。
生きるために。
誰かを守るために。
レインはその光景を見ていた。
そして。
胸の奥で、何かが変わる。
守れなかった命は消えない。
一生残る。
痛みになる。
後悔になる。
でも。
だから止まるのか。
違う。
止まったら。
次も死ぬ。
レインは拳を握った。
その時。
セレナが隣で呟く。
「怖い?」
「……はい」
「私も」
レインが驚いて見る。
セレナは前を見たままだった。
「ずっと怖い」
炎が銀髪を照らす。
「仲間を失うのも」
「誰かが死ぬのも」
「自分が生き残るのも」
声は静かだった。
「慣れないわ」
レインは少しだけ笑った。
この人でも怖いんだ。
最強でも。
無敵じゃない。
「……じゃあ」
レインは小さく言う。
「一緒ですね」
セレナが目を細める。
「そうかもね」
少しだけ。
本当に少しだけ。
二人の距離が近かった。
恋愛じゃない。
甘い言葉でもない。
でも。
隣で生きてきた時間が、確かにそこにあった。
その瞬間。
災獣ベルグラが咆哮する。
都市全域が震える。
そして。
黒門がさらに開いた。
中から無数の赤い光が見える。
新しい魔物。
まだ終わらない。
絶望みたいな光景だった。
兵士たちの顔が青ざめる。
「終わりだ……」
「もう無理だ……」
心が折れ始めていた。
レインはそれを見る。
怖い。
自分だって怖い。
でも。
ここで折れたら、本当に終わる。
レインは深く息を吸った。
震える。
吐きそう。
心臓が痛い。
それでも。
前へ出る。
「……まだです」
声は小さい。
でも。
確かに響いた。
「まだ終わってない」
兵士たちがレインを見る。
弱そうな新人冒険者。
震えている青年。
それでも。
逃げていない。
「僕が……」
レインは拳を握る。
血が滲むほど強く。
「絶対に、止めます」
その瞬間。
レインの中で魔力が脈動した。
無限魔力。
暴走寸前の膨大な力。
空気が震える。
風が逆巻く。
セレナが目を見開いた。
「レイン……?」
レインの目が変わる。
恐怖は消えていない。
弱さもある。
それでも。
その奥に。
初めて“覚悟”が宿っていた。




