100:もう逃げない
空が裂けていた。
崩壊都市ヴァルゼアの上空。
黒門から溢れる瘴気が雲を侵食し、昼だというのに世界は薄暗い。
石造りの街並みは半分以上が崩れ、炎があちこちで燃えている。
避難民の列。
怪我人。
泣き叫ぶ子供。
血の匂い。
煙。
死。
その中心で。
巨大災獣ベルグラが咆哮した。
空間そのものが震える。
音圧だけで建物の窓が砕け散った。
兵士たちが耳を押さえ膝をつく。
恐怖。
絶望。
戦意は、もう限界だった。
「無理だ……」
「勝てるわけがない……」
「S級でも倒せなかったんだぞ……!」
誰かの声が広がる。
諦めは伝染する。
崩れた前線は、もう戻らない。
普通なら。
ここで終わりだった。
その時。
瓦礫の上へ、一人の青年が立つ。
黒髪。
細い身体。
頼りない姿勢。
剣を握る手は震えていた。
レインだった。
誰が見ても弱そうだった。
実際、弱かった。
呼吸は乱れている。
胃が痛い。
膝も笑っている。
怖い。
逃げたい。
今すぐこの場から消えてしまいたい。
それでも。
レインは立った。
逃げなかった。
セレナが後ろから彼を見る。
銀髪が炎に揺れる。
傷だらけの身体。
それでも彼女の目だけは、真っ直ぐだった。
レインを見ている。
信じるように。
レインは深く息を吸った。
震える声で。
それでもはっきりと言う。
「……僕が止めます」
兵士たちが顔を上げる。
誰だ。
あの新人。
何を言ってる。
そんな視線が刺さる。
レインは怖かった。
喉が乾く。
吐き気が込み上げる。
それでも。
逃げない。
「だから……」
拳を握る。
「まだ、諦めないでください」
その瞬間。
レインの身体から魔力が溢れた。
暴風のような魔力。
空気が震える。
地面が軋む。
兵士たちが目を見開いた。
「な、なんだ……!?」
「魔力……?」
「ありえない量だ……!」
無限魔力。
本来なら人間が持てる量ではない。
制御不能。
暴走寸前。
それが今。
レインの中で渦を巻いていた。
苦しい。
全身が焼ける。
血管が裂けそうだった。
でも。
レインは鑑定を発動する。
【対象:災獣ベルグラ】
【属性:空間侵食/重力干渉/高位再生】
【弱点:核】
【核位置:胸部内部・第二層装甲奥】
【推定討伐成功率:3.2%】
低い。
絶望的だった。
普通なら無理だ。
でも。
レインは目を閉じない。
「……セレナさん」
「なに」
「僕が道を作ります」
セレナが目を細める。
「核まで行けますか」
「行くわ」
即答だった。
迷いがない。
レインは少しだけ笑った。
この人は、本当に強い。
だから。
自分も立つ。
「なら」
レインは剣を構える。
「お願いします」
次の瞬間。
ベルグラが前脚を振り下ろした。
大地が割れる。
建物が吹き飛ぶ。
死の一撃。
レインは叫んだ。
「水壁!」
大量の水が空中へ展開される。
巨大な水壁。
その瞬間。
「氷結!」
水が一瞬で凍る。
極厚の氷壁。
ベルグラの前脚が叩きつけられる。
轟音。
氷壁は砕け散った。
でも。
一瞬止まった。
その一瞬で十分だった。
「セレナさん!」
「任せなさい!」
炎が爆発する。
セレナが飛ぶ。
長身の身体が空を裂く。
超大型大剣が赤熱していた。
ベルグラの腕へ叩き込まれる。
凄まじい斬撃。
巨腕が吹き飛ぶ。
兵士たちが歓声を上げる。
まだ戦える。
まだ終わっていない。
その空気が戻り始める。
しかし。
次の瞬間。
吹き飛んだ腕が再生を始めた。
肉が蠢く。
骨が伸びる。
怪物が笑うように震えた。
「……再生が早い」
セレナが舌打ちする。
レインの鑑定が走る。
【核破壊以外:完全再生可能】
つまり。
核を壊すしかない。
レインは周囲を見る。
瓦礫。
崩壊した水路。
蒸気管。
風向き。
全部見る。
全部繋がる。
頭の中で戦場が組み上がっていく。
そして。
気づく。
「……いける」
レインが呟く。
怖い。
でも。
見えた。
勝ち筋が。
「セレナさん!」
「どうした!」
「三十秒だけ止めてください!」
セレナが笑う。
血まみれなのに。
獰猛に。
「言うようになったじゃない」
次の瞬間。
彼女が突撃する。
炎を纏いながら。
ベルグラの正面へ。
災獣が咆哮する。
空間が歪む。
重力が狂う。
普通なら身体が潰れる。
でも。
セレナは止まらない。
「私は!」
大剣を振る。
「前に出るのが仕事よ!」
炎の斬撃。
爆発。
巨体が揺れる。
その隙に。
レインが動く。
「水流操作!」
崩れた水路から大量の水が浮き上がる。
「蒸気化!」
熱湯。
蒸気。
都市全域へ白い霧が広がる。
視界を奪う。
ベルグラが警戒する。
「風圧!」
蒸気が高速循環する。
巨大な風の流れ。
霧が回転し始める。
兵士たちが目を見開いた。
「魔法を……組み合わせてる……?」
「新人が……?」
レインの額から血が流れる。
制御が限界だった。
脳が焼ける。
でも。
止めない。
「土壁展開!」
巨大な土壁がベルグラの脚を固定する。
拘束。
重量分散。
動きを止める。
ベルグラが暴れる。
土壁が砕ける。
それでも。
一秒。
二秒。
止まる。
その間に。
レインは最後の魔法を組み上げる。
膨大な魔力。
圧縮。
収束。
右手が震える。
怖い。
失敗したら死ぬ。
でも。
もう逃げない。
「……行きます」
レインが前を見る。
その目は、もう伏せられていなかった。
「サイコキネシス」
空気が止まる。
次の瞬間。
都市中の瓦礫が浮いた。
石。
鉄。
崩れた塔。
剣。
槍。
全部。
数千。
数万。
全てが空へ浮かび上がる。
兵士たちが息を呑む。
「な……」
「嘘だろ……」
レインは血を吐く。
制御が狂う。
頭が割れそうだった。
でも。
握る。
離さない。
「道を……!」
叫ぶ。
「開けぇぇぇぇぇぇ!!」
全ての瓦礫が一斉に射出された。
超高速。
超重量。
ベルグラの装甲を削る。
砕く。
吹き飛ばす。
胸部が露出する。
核が見えた。
赤黒い結晶。
脈動する心臓。
レインが叫ぶ。
「セレナさん!!」
「ええ!!」
炎が爆ぜる。
セレナが飛ぶ。
真っ直ぐ。
一直線。
誰より速く。
そして。
超大型大剣が振り下ろされる。
「燃え尽きなさいッ!!」
灼熱。
閃光。
轟音。
世界が白く染まった。
次の瞬間。
ベルグラの核が砕け散る。
沈黙。
巨体が止まる。
崩れる。
山のような災獣が、ゆっくり倒れた。
都市全体が揺れる。
そして。
静かになった。
誰も動かなかった。
信じられない。
本当に終わったのか。
やがて。
一人の兵士が呟く。
「……勝った」
その瞬間。
歓声が爆発した。
泣き声。
笑い声。
崩れるように座り込む人々。
生きている。
まだ生きている。
その中心で。
レインは膝をついた。
限界だった。
魔力枯渇。
全身が痛い。
吐き気も酷い。
それでも。
前へ倒れなかった。
その肩へ。
そっと手が置かれる。
セレナだった。
血だらけのまま。
傷だらけのまま。
それでも笑っていた。
「……頑張ったわね」
レインは息を切らしながら笑う。
「怖かったです」
「知ってる」
「ずっと」
「うん」
セレナが隣へ座る。
肩が触れる。
自然に。
当たり前みたいに。
「……でも」
レインは前を見る。
崩壊した都市。
それでも、生き残った人たち。
「もう逃げません」
セレナは静かに目を細めた。
その言葉は。
強さの宣言じゃない。
覚悟だった。
弱くて。
怖くて。
震えて。
吐きながら。
それでも立つ。
そんな青年の。
小さくて。
確かな覚悟だった。
セレナはゆっくりと頭を預ける。
レインの肩へ。
「……なら」
銀髪が揺れる。
「これからも、一緒に戦って」
レインは驚く。
けれど。
今度は目を逸らさなかった。
「はい」
短い返事。
それだけだった。
恋人じゃない。
まだ。
でも。
二人で生きた時間は、本物だった。
崩壊した都市の朝日が。
ゆっくり二人を照らしていた。




