101:空間固定術式
崩壊都市ヴァルゼアの戦いから、七日が経っていた。
街はまだ煙の匂いが残っている。
崩れた建物。
砕けた石畳。
焼け焦げた壁。
完全な復興には何年も必要だろう。
それでも、人は生きていた。
市場には少しずつ露店が戻り始め、鍋の湯気が通りに漂う。
パンを焼く匂い。
煮込み料理の香辛料。
泣いていた子供たちが笑い始めている。
レインは宿屋の二階の窓から、その景色をぼんやり眺めていた。
朝だった。
雨上がりの柔らかい光が街を照らしている。
しかし、彼の顔色は悪い。
額には汗。
呼吸も浅い。
魔力暴走の後遺症だった。
身体の中に膨大な力が渦巻いている。
制御しきれない。
眠っていても魔力が漏れる。
昨日も寝具を半分凍らせた。
一昨日は窓ガラスを圧力で割った。
普通の魔術師なら、とっくに死んでいる。
レインは震える指でカップを持つ。
白湯が少し波打った。
怖い。
また暴走したら。
誰かを巻き込んだら。
そう考えるだけで胃が痛くなる。
その時。
「起きてたのね」
扉が開く。
セレナだった。
銀髪を軽く束ね、黒いシャツ姿のまま入ってくる。
長身。
綺麗な脚。
色気のある身体。
それでも今日は戦士というより、少し疲れた年上の女性に見えた。
彼女はテーブルへ皿を置く。
「食べなさい」
湯気の立つスープ。
焼いたパン。
香草入りの卵料理。
簡素だが温かい。
レインが目を瞬かせる。
「……セレナさんが作ったんですか」
「宿の厨房を借りたの。味は保証しないけど」
「いえ……すごく、美味しそうです」
セレナが小さく笑う。
「なら良かった」
レインはスープを口へ運ぶ。
温かい。
胃に染みる。
自然と肩の力が抜けた。
セレナは向かいへ座る。
静かな時間だった。
雨上がりの音。
遠くの市場の声。
鍋の煮える音。
こういう時間が増えた。
戦場じゃない時間。
一緒に生きる時間。
「……まだ痛む?」
セレナが聞く。
レインは少し迷い、頷いた。
「身体の中が……ずっと暴れてる感じです」
「魔力か」
「はい」
レインは手を見る。
震えている。
「怖いです」
正直に言う。
「自分で、自分を壊しそうで」
セレナは黙って聞いていた。
否定しない。
軽く励ましたりもしない。
それが彼女の優しさだった。
「レイン」
「……はい」
「昨日、街の結界術師に会ってきたの」
レインが顔を上げる。
「結界術師……?」
「空間術式を扱う連中よ。かなり変わり者だけど」
セレナは腕を組む。
「あなたの魔力を見て、一つ提案してきた」
「提案……?」
「空間固定術式」
聞き慣れない言葉だった。
レインが首を傾げる。
セレナは続けた。
「簡単に言えば、“空間そのもの”で魔力を押さえ込む技術」
「……そんなことが」
「普通は無理」
即答だった。
「でもあなたの魔力は普通じゃない」
レインは苦笑する。
普通じゃない。
その言葉は最近、何度も聞いた。
嬉しくない。
力は強い。
でも。
自分は弱いままだ。
「成功率は?」
「低いわ」
「……そうですか」
「失敗したら暴走する可能性もある」
レインの顔が青くなる。
セレナは真っ直ぐ彼を見る。
「でも、今のままでも危険よ」
その通りだった。
レインは何も言い返せない。
沈黙。
窓の外で鐘が鳴る。
朝市の開始を告げる音だった。
セレナが静かに言う。
「私は、あなたに死んでほしくない」
レインの肩が小さく震える。
「……はい」
「だから試す」
「怖いです」
「知ってる」
セレナが立ち上がる。
「でも、逃げないんでしょう?」
レインはしばらく黙っていた。
怖い。
本当に怖い。
また暴走したら。
セレナを傷つけたら。
街を壊したら。
そんな想像ばかり浮かぶ。
それでも。
彼はゆっくり頷いた。
「……逃げません」
セレナが笑った。
安心したように。
少しだけ嬉しそうに。
「うん」
昼過ぎ。
二人はヴァルゼア地下区画へ向かっていた。
崩壊都市の地下。
古代術式が残る場所。
空間魔法の研究施設。
一般人は立ち入り禁止区域だった。
階段を降りるたび、空気が変わる。
冷たい。
静か。
壁一面に魔術紋様が刻まれている。
レインは思わず見入った。
「……すごい」
「古代王国時代の遺跡らしいわ」
セレナが前を歩く。
その時。
「止まれ」
低い声。
ローブ姿の老人が現れた。
細い身体。
白髪。
片目だけ金色だった。
異様な威圧感がある。
「貴様が無限魔力持ちか」
レインが小さく身を縮める。
「……はい」
「弱いな」
容赦ない。
レインの顔が曇る。
セレナが睨んだ。
「言い方を選びなさい」
「事実だ」
老人は鼻を鳴らす。
「力に身体が追いついておらん。器が脆い」
レインは反論できなかった。
全部本当だ。
「名は?」
「レインです」
「私はグラン」
老人が振り返る。
「来い。時間がない」
奥へ進む。
巨大な円形空間。
床には複雑な魔法陣が刻まれていた。
空間が微妙に歪んで見える。
レインは思わず息を呑む。
「これが……」
「空間固定術式だ」
グランが杖を鳴らす。
「本来、人間に使う術ではない」
嫌な予感しかしない。
レインの胃が痛くなる。
「成功すれば、暴走はかなり抑えられる」
「失敗したら?」
「空間圧縮で死ぬ」
レインの顔が真っ青になる。
セレナがため息をついた。
「脅かさないで」
「事実だ」
グランは無表情だった。
「無限魔力など、本来この世界に存在してはならん」
レインは唇を噛む。
怖い。
本当に。
逃げたい。
でも。
セレナが隣に立つ。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
「……やります」
グランが目を細めた。
「覚悟はあるか」
レインは震えながら頷く。
「あります」
本当はない。
怖い。
死にたくない。
でも。
もう逃げない。
それだけだった。
「なら座れ」
レインが術式中央へ座る。
空気が変わる。
重い。
空間そのものが沈み込む感覚。
グランが杖を掲げる。
「始める」
瞬間。
魔法陣が発光した。
膨大な圧力。
レインの身体が悲鳴を上げる。
「ぐっ……!」
空間が閉じる。
押し潰される。
呼吸できない。
魔力が暴れ出した。
黒い奔流。
暴風。
施設全体が震える。
「抑えろ!」
グランが叫ぶ。
「意識を散らすな!」
無理だ。
苦しい。
痛い。
怖い。
レインの視界が揺れる。
その時。
手が触れた。
セレナだった。
術式の外から、彼の手を握っている。
「レイン」
低い声。
落ち着く声。
「呼吸して」
レインが震える。
「でき……ない……」
「できる」
セレナは離さない。
「あなたは、もう一人じゃない」
その言葉が。
胸へ落ちた。
レインは目を閉じる。
呼吸。
一回。
もう一回。
少しずつ。
魔力の流れを見る。
怖い。
でも。
逃げない。
自分の中を見つめる。
無限の奔流。
暴力みたいな力。
でも。
その奥に、小さな核がある。
中心。
そこへ意識を伸ばす。
「……固定しろ」
グランの声。
レインが手を握る。
空間を見る。
流れを見る。
魔力を見る。
繋がった。
その瞬間。
暴走していた魔力が止まる。
静寂。
巨大な圧力が消えた。
術式の光が安定する。
グランが目を見開く。
「……成功した?」
レインは荒い息を吐く。
全身汗だく。
死ぬほど疲れていた。
でも。
身体の中が違う。
静かだった。
初めて。
無限魔力が、自分の中で“留まっている”。
「……できた」
レインが呟く。
セレナが目を細めた。
「お疲れさま」
その声が優しい。
本当に。
優しかった。
レインは力が抜ける。
そのまま前へ倒れそうになる。
セレナが支えた。
「っと」
長い腕。
温かい体温。
近い。
レインの顔が赤くなる。
「す、すみません」
「謝らなくていい」
セレナは笑う。
「頑張ったんだから」
レインは少しだけ目を伏せる。
でも。
今度は逃げなかった。
ちゃんと彼女を見る。
「……セレナさん」
「なに?」
「ありがとうございます」
静かな声だった。
でも。
本心だった。
セレナは一瞬だけ目を丸くする。
それから。
少し困ったように笑った。
「そういう顔、できるようになったのね」
レインは自覚がなかった。
けれど。
以前より、少しだけ。
顔を上げられていた。




