102:転移狩り
夜の雨は、静かだった。
崩壊都市ヴァルゼア。
復興途中の街を濡らす雨音が、石畳へ細かく響いている。
戦いの後に残る独特の静けさ。
生き残った街だけが持つ、疲れた呼吸のような空気だった。
宿屋《白鹿亭》の厨房では、遅い時間にもかかわらず鍋の火が落ちていない。
避難民や冒険者が絶えないのだ。
肉と豆の煮込み。
焼き立ての黒パン。
安い酒。
疲弊した街では、それだけでも救いになる。
レインは厨房の隅で皿を運んでいた。
ぎこちない手つき。
慣れていない動き。
それでも真面目に働いている。
「レイン、そっちお願い!」
「あ、はい!」
宿屋の女将に頭を下げ、湯気の立つ皿を運ぶ。
以前なら、人前に出るだけで胃が痛くなっていた。
今も苦手だ。
視線は怖い。
人混みも苦しい。
でも。
少しだけ変わった。
「兄ちゃん、追加のパン!」
「わ、分かりました」
ちゃんと返事ができる。
逃げなくなった。
それだけでも大きかった。
厨房の入口に、長身の影が立つ。
セレナだった。
銀髪が雨で少し濡れている。
黒いロングコート。
脚の長い綺麗な立ち姿。
疲れているはずなのに、やはり目を引く。
客席の男たちが一瞬息を呑む。
セレナは慣れたように無視して、レインへ近づいた。
「終わりそう?」
「あと少しです」
「なら待ってる」
それだけ言って壁際へ腰掛ける。
自然だった。
最近は、こういう時間が増えた。
一緒に食事をする。
同じ宿へ戻る。
怪我を見せる。
雨宿りをする。
静かに話す。
恋愛イベントではない。
でも。
二人で生きている時間だった。
レインは皿を洗いながら、ちらりとセレナを見る。
綺麗だと思う。
強いと思う。
同時に。
どこか壊れそうにも見える。
彼女は強すぎる。
だから、一人で耐えすぎる。
レインはその顔を、最近少しずつ読めるようになっていた。
厨房仕事が終わる頃には、雨がさらに強くなっていた。
宿の外は霧のような雨幕に包まれている。
レインとセレナは、二人並んで歩き始めた。
夜道。
石畳。
ランタンの灯り。
静かな雨音。
セレナが小さく息を吐く。
「寒いわね」
「……はい」
レインは少し迷ってから、自分の外套を差し出した。
「使いますか」
セレナが目を瞬かせる。
「あなたが寒いでしょう」
「僕は大丈夫です」
嘘だった。
普通に寒い。
でも。
セレナは少しだけ笑った。
「優しいのね」
そのまま外套を受け取る。
肩へ掛ける。
レインの匂いが少し残っていて、彼女は気づかれないように視線を逸らした。
その時だった。
レインの足が止まる。
「……?」
空気が変わった。
違和感。
視界の端。
空間が歪んだ。
レインの瞳が揺れる。
鑑定が勝手に発動する。
【高位空間転移反応】
【座標固定前】
【転移対象:三】
「セレナさん」
声が硬くなる。
「来ます」
次の瞬間。
空間が裂けた。
黒い穴。
転移門。
三つ。
そこから黒装束の男たちが現れる。
無音。
気配が薄い。
殺意だけが鋭い。
転移暗殺者。
高位国家が使う特殊部隊だった。
セレナの目が細くなる。
「……転移使い」
「狙いは」
答えは早かった。
三人同時に動く。
一直線。
レインへ。
セレナが即座に前へ出る。
超大型大剣を抜く。
轟音。
一撃目を弾き飛ばす。
しかし。
敵は消えた。
「っ!」
再転移。
背後。
死角。
短剣がレインの首へ迫る。
レインの身体が震える。
怖い。
反応が遅れる。
でも。
逃げない。
「風圧!」
暴風が炸裂する。
敵の軌道がズレる。
短剣が頬を掠めた。
血が流れる。
セレナが叫ぶ。
「下がって!」
「嫌です!」
レインが叫び返す。
以前なら言えなかった。
でも。
今は違う。
「一人で戦わせません!」
セレナが目を見開く。
その一瞬。
敵が再転移する。
空間歪曲。
殺意が消える。
見えない。
レインの鑑定が走る。
【転移先予測】
【左上】
「上!」
セレナが即座に動く。
炎を纏った大剣が空を薙ぐ。
轟音。
一人の暗殺者が吹き飛ぶ。
壁へ激突。
しかし。
まだ二人。
再び転移。
消える。
現れる。
高速。
普通の冒険者なら対応不能。
レインは呼吸を整える。
怖い。
でも見る。
空間を見る。
歪みを見る。
転移の流れを見る。
「……座標固定」
呟く。
空間固定術式。
昨日覚えたばかりの技術。
まだ不完全。
失敗したら危険。
でも。
やるしかない。
「レイン!?」
セレナが振り返る。
レインは両手を地面へ置いた。
「固定します!」
魔力が流れる。
空間へ。
座標へ。
街路全体へ。
膨大な魔力。
レインの身体が軋む。
でも。
制御できる。
少しだけ。
「空間固定術式――展開」
空気が止まった。
次の瞬間。
転移しようとしていた暗殺者が弾かれる。
「なっ!?」
失敗。
転移不能。
敵が初めて動揺する。
レインの額から血が流れた。
負荷が大きい。
でも。
止めない。
「今です!」
「ええ!!」
セレナが突撃する。
炎の踏み込み。
石畳が砕ける。
超大型大剣が振り抜かれた。
一人目。
両断。
血飛沫。
二人目が逃げようとする。
転移不能。
焦る。
レインが叫ぶ。
「水拘束!」
大量の水が蛇のように絡みつく。
敵の脚を固定。
セレナが接近。
その目に迷いはない。
「終わりよ」
炎斬。
暗殺者が崩れ落ちた。
静寂。
雨だけが降っている。
レインはその場へ膝をつく。
息が荒い。
空間固定術式は負荷が重い。
まだ身体が慣れていない。
セレナがすぐ隣へしゃがみ込む。
「無茶しすぎ」
「……すみません」
「褒めてるの」
レインが顔を上げる。
セレナは笑っていた。
少し誇らしそうに。
「転移封じなんて、普通は高位術師でも無理よ」
「でも……怖かったです」
「知ってる」
セレナはレインの頬の傷を指で拭う。
優しい手。
「震えてた」
「はい」
「それでも立った」
レインは答えられない。
セレナが静かに言う。
「……強くなったわね」
雨が降る。
静かな夜だった。
遠くで鐘が鳴る。
復興都市の夜警交代の音。
セレナが立ち上がる。
「戻りましょう」
レインも立つ。
少しふらつく。
セレナが自然に腕を支えた。
近い。
柔らかい体温。
レインの顔が赤くなる。
セレナは少し笑った。
「そういう顔、前より増えた」
「……からかわないでください」
「可愛いから無理」
レインが固まる。
セレナは先に歩き出した。
でも。
その横顔は少し赤かった。
雨の街を二人で歩く。
肩が近い。
触れそうな距離。
戦場ではない。
ただの帰り道。
けれど。
それが、何より大切な時間だった。




