103:読めない座標
雨は三日続いていた。
崩壊都市ヴァルゼアの石畳は常に濡れ、街全体に湿った冷気が漂っている。
復興途中の都市には、独特の匂いがあった。
濡れた木材。
煤。
血。
煮込み料理。
人が必死に生きている匂いだった。
朝。
宿屋《白鹿亭》の食堂では、避難民たちが静かに食事を取っている。
以前のような絶望だけの空気ではない。
子供の笑い声が戻った。
パンを焼く匂いが戻った。
それでも。
街の緊張は消えていない。
転移暗殺者襲撃事件。
あれ以降、夜警の数は倍になった。
冒険者ギルドは高額依頼を連発し、街中に結界が張られている。
敵がどこから現れるか分からない。
その恐怖が、まだ残っていた。
レインは食堂の端でスープを飲んでいた。
ぼんやり窓の外を見ている。
黒髪。
少し猫背。
弱そうな青年。
けれど以前より、目だけは少し変わっていた。
伏せっぱなしではない。
世界を見ている。
隣にはセレナが座っていた。
長い銀髪を片側へ流し、湯気の立つコーヒーを飲んでいる。
彼女は視線を窓へ向けたまま言った。
「昨日、また転移反応があった」
レインが顔を上げる。
「場所は?」
「西区画。空振りだったみたいだけど」
「……囮かもしれません」
「私もそう思う」
セレナは短く息を吐いた。
「妙なのよ」
「妙?」
「転移座標が読めない」
レインの動きが止まる。
彼は転移術式の流れを“見る”ことができる。
空間歪曲。
魔力偏差。
固定前の座標振動。
普通の魔術師には不可能な感覚。
だからこそ、前回の暗殺者を封じ込められた。
しかし。
「読めないって……ありえるんですか」
「グランも首を傾げてた」
空間術師グラン。
あの偏屈な老人が理解できないということは、本当に異常なのだ。
レインは少し考える。
「座標を隠蔽してる……?」
「普通の術式じゃないわね」
沈黙。
窓を叩く雨音だけが続く。
その時。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「セレナ!!」
ギルド職員の青年が飛び込んでくる。
顔色が悪い。
息も切れていた。
「北区画で転移事故だ!」
セレナが即座に立ち上がる。
「規模は!?」
「分からない! 突然空間が裂けて……!」
レインも立ち上がっていた。
怖い。
また戦いだ。
でも。
もう身体は逃げていなかった。
北区画。
復興用資材倉庫周辺。
現場へ着いた時、空気そのものが歪んでいた。
空間が軋む。
視界が揺れる。
石畳の一部が浮いている。
人々が逃げ惑い、兵士たちが避難誘導を行っていた。
中心には。
黒い裂け目。
縦に裂けた空間。
まるで世界そのものが傷ついているようだった。
レインの背筋が冷える。
「……こんなの」
鑑定が勝手に走る。
【高位空間侵食】
【座標不明】
【転移先:観測不可】
【危険度:極大】
観測不可。
初めて見る表示だった。
セレナも顔をしかめる。
「嫌な感じね」
その瞬間。
裂け目から何かが飛び出した。
黒い影。
高速。
兵士へ一直線。
「っ!!」
セレナが反応する。
超大型大剣が閃く。
轟音。
黒影が吹き飛ばされる。
地面へ転がったそれを見て、周囲が息を呑んだ。
人間だった。
いや。
元人間。
身体が半分ほど黒い結晶へ侵食されている。
目は虚ろ。
理性がない。
「転移汚染……?」
セレナが低く呟く。
レインは顔色を失っていた。
鑑定結果が酷い。
【空間侵食体】
【生命維持:崩壊寸前】
【転移座標焼失】
【回復不能】
レインの喉が震える。
「……助からない」
セレナは一瞬だけ目を伏せる。
次の瞬間。
侵食体が暴れた。
腕が変形する。
黒い刃。
近くの兵士へ襲いかかる。
セレナが動く。
一瞬だった。
炎を纏った大剣。
首を落とす。
侵食体はそのまま崩れ落ちた。
静寂。
周囲の兵士たちが青ざめる。
レインは動けなかった。
怖い。
空間そのものが壊れている。
転移先すら存在しない。
そんな場所があるのか。
その時。
空間裂け目がさらに広がった。
嫌な音。
世界が裂ける音。
レインが反射的に叫ぶ。
「下がって!!」
次の瞬間。
十数体の侵食体が落ちてきた。
兵士たちが混乱する。
セレナが前へ出る。
「迎撃する!」
炎が爆発する。
大剣が振るわれるたび、侵食体が吹き飛ぶ。
強い。
圧倒的だった。
それでも数が多い。
しかも。
空間から突然現れる。
読めない。
レインは必死に空間を見る。
見る。
探る。
でも。
分からない。
「なんで……」
座標が存在しない。
いや。
固定されていない。
常に変化している。
漂流している。
そんな転移術式、ありえない。
レインの額に汗が浮かぶ。
怖い。
理解できないものは怖い。
呼吸が浅くなる。
吐き気が込み上げる。
その時。
「レイン!!」
セレナの声。
振り返る。
侵食体がすぐ後ろにいた。
黒刃が振り下ろされる。
死。
レインの身体が凍る。
怖い。
でも。
逃げない。
「土壁!!」
轟音。
石壁が出現する。
黒刃が突き刺さる。
その瞬間。
レインは侵食体の腕を掴んだ。
「魔力吸収!!」
黒い魔力が流れ込む。
激痛。
頭が割れそうだった。
侵食体の中にある“転移残滓”。
空間情報。
それがレインへ流れ込む。
「ぐっ……!」
膝をつく。
吐血。
セレナが顔色を変える。
「レイン!!」
「……見えた」
レインが震えながら立つ。
目が赤く染まっていた。
「座標が固定されてないんじゃない……」
空間を見る。
歪みを見る。
流れを見る。
「転移先そのものが、移動してる」
セレナが目を細める。
「移動……?」
「漂流空間です」
レインの声が震える。
「壊れた空間ごと、この世界へ接続してる」
グランがいたなら、絶句していただろう。
そんな術式は理論上存在しない。
空間そのものを漂流させる。
国家レベルどころではない。
禁忌。
レインは呼吸を整える。
怖い。
本当に怖い。
でも。
今、自分しか見えていない。
「セレナさん」
「なに」
「裂け目を十秒止めてください」
「できるの?」
「分かりません」
正直だった。
「でも、やります」
セレナが笑う。
戦場の顔だった。
「好きよ、そういうところ」
次の瞬間。
彼女が踏み込む。
炎が爆ぜる。
侵食体を吹き飛ばしながら、裂け目前へ立つ。
「誰も通さない!」
轟炎。
爆風。
侵食体が近づけない。
レインはその後ろで術式を組み始める。
空間固定。
でも今回は違う。
固定するのは座標じゃない。
“漂流そのもの”。
無理だ。
普通なら。
でも。
レインの魔力は無限だった。
「固定……しろ……!」
膨大な魔力が流れる。
空間が悲鳴を上げる。
裂け目が震える。
レインの身体から血が流れた。
限界。
でも。
止めない。
「止まれぇぇぇぇ!!」
世界が震えた。
次の瞬間。
裂け目が停止する。
空間漂流が、一瞬だけ固定された。
レインの鑑定が走る。
【座標固定成功】
【転移核:確認】
見えた。
裂け目の奥。
黒い核。
空間侵食の中心。
「セレナさん!!」
「了解!!」
炎が走る。
セレナが飛び込む。
裂け目へ。
普通なら自殺行為。
でも彼女は止まらない。
大剣が振り下ろされる。
「焼き尽くせ!!」
爆炎。
閃光。
黒核が砕け散る。
次の瞬間。
裂け目そのものが崩壊した。
静寂。
雨だけが降っている。
侵食体たちは動きを止め、そのまま崩れ落ちた。
レインはその場へ倒れる。
限界だった。
視界が霞む。
その身体を、セレナが抱き止める。
「無茶しすぎ」
怒っている声。
でも。
震えていた。
レインは苦笑する。
「……すみません」
「本当にそう思ってる?」
「少しだけ」
セレナが呆れたように笑う。
それから。
そっとレインの濡れた前髪を払った。
「怖かった?」
レインは少し黙る。
そして。
「……すごく」
正直に答える。
セレナは優しく目を細めた。
「うん」
それだけだった。
否定しない。
無理に強がらせない。
ただ隣にいる。
レインはその温度に、少しだけ安心して目を閉じた。




