104:空間戦
夜の雨は、昼より冷たかった。
崩壊都市ヴァルゼアの空は厚い雲に覆われ、月明かりすら届かない。
宿屋《白鹿亭》の二階。
レインは窓辺に座り、濡れた街を見ていた。
空間裂傷事件から三日。
都市は落ち着きを取り戻しつつある。
けれど、本質的には何も解決していなかった。
“漂流空間”。
通常の転移術とは別物。
固定されない座標。
移動し続ける異常空間。
あれが偶然の事故ではないことくらい、もう誰でも分かっている。
誰かが意図的にやっている。
問題は。
その誰かが、どこにもいないことだった。
レインは額を押さえる。
鑑定を使いすぎた反動がまだ残っている。
脳が焼けるように痛む。
魔力そのものは尽きない。
でも。
肉体と精神は普通の人間だ。
無限魔力は、無限の負荷でもある。
「また起きてる?」
背後から声。
セレナだった。
風呂上がりらしく、銀髪が少し湿っている。
ラフなシャツ姿。
酒瓶を片手に持っていた。
レインは少し目を逸らす。
セレナは本当に綺麗だ。
強くて。
色気があって。
隣にいるだけで緊張する。
それでも、以前ほど逃げたくはならない。
「……少しだけです」
「嘘」
セレナは隣へ座った。
距離が近い。
体温が分かる。
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「その“大丈夫”は信用してない」
レインは苦笑する。
セレナは酒を一口飲み、窓の外を見る。
「怖い?」
また、その質問だった。
レインは少し考える。
「……はい」
「何が?」
「分からないことです」
素直な答えだった。
「剣ならまだ分かります。魔物も……強い弱いがある」
「でも空間は違う?」
「見えないんです」
レインはゆっくり息を吐く。
「どこから来るかも分からない。どう壊れるかも分からない」
「怖いです」
セレナは静かに聞いていた。
「でも」
レインが続ける。
「前よりは、逃げたくない」
セレナが少し目を細める。
「変わったわね」
「……セレナさんがいたからです」
一瞬、沈黙。
レインは言ってから後悔した。
変なことを言った気がする。
顔が熱い。
だがセレナは笑わなかった。
代わりに、静かに酒瓶を置く。
「私はね」
珍しく、彼女の方から話し始めた。
「昔、弟子がいたの」
レインが顔を上げる。
セレナが弟子の話をするのは初めてだった。
「強くなりたがってた子」
「才能もあった」
「真面目で、優しくて……少し無理する子だった」
セレナの声は静かだった。
「死んだわ」
短い。
それだけ。
でも重い。
「私を庇って」
雨音だけが響く。
「私はずっと思ってた」
セレナが窓の外を見る。
「強い人間が守ればいいって」
「弱い人間は後ろにいればいいって」
「その方が生存率が高いから」
現実的な考えだ。
間違っていない。
「でも、その子は前に出た」
「怖いのに」
「震えてたのに」
「逃げなかった」
セレナはそこで少し笑う。
「あなたに似てる」
レインは何も言えなかった。
「だから私は」
セレナの視線がレインへ向く。
「もう二度と、同じ顔をさせたくない」
その言葉は、重かった。
戦場を生き残ってきた女の言葉。
たくさん死を見てきた人間の願い。
レインは胸が苦しくなる。
何かを言おうとした、その時。
空気が歪んだ。
セレナの目が変わる。
「来る」
次の瞬間。
部屋の中央が裂けた。
黒い亀裂。
空間転移。
しかも。
近い。
「っ!!」
セレナがレインを突き飛ばす。
同時に黒刃が走った。
机が真っ二つになる。
転移暗殺者。
黒装束。
仮面。
人間の形をしているが、気配が薄い。
空間に溶け込んでいる。
「宿を狙うなんて最低ね」
セレナが大剣を掴む。
暗殺者は無言。
再び空間へ沈む。
消えた。
「レイン!」
「はい!」
レインは即座に索敵を広げる。
でも。
読めない。
座標が滑る。
固定されない。
「右!!」
レインが叫ぶ。
セレナが振り向きざまに大剣を振る。
轟音。
火花。
空間から現れた刃を弾く。
暗殺者が初めて距離を取った。
強い。
セレナですら、完全には捉えきれていない。
転移しながら戦っている。
空間戦。
普通の戦士では対応不能。
暗殺者が再び消える。
レインは必死に空間を見る。
魔力流。
歪み。
振動。
読め。
探せ。
怖い。
怖い。
でも。
逃げない。
「……いた」
ほんの僅か。
空間が沈む。
「下!!」
床が裂ける。
暗殺者が飛び出す。
セレナが迎撃。
大剣が振り下ろされる。
暗殺者は転移回避。
しかし。
「風牢!!」
レインの魔法。
風の檻が展開される。
一瞬だけ、空間転移が乱れる。
セレナの目が鋭く光る。
「捕まえた」
炎。
爆発。
暗殺者が吹き飛ぶ。
壁へ激突。
だが。
まだ立つ。
その瞬間。
レインの鑑定が走る。
【空間潜行】
【座標多重化】
【転移分散】
理解する。
「セレナさん!」
「なに!」
「本体じゃない!」
暗殺者の身体が歪む。
分裂。
三体。
五体。
偽物。
残像。
転移による多重投影。
セレナが舌打ちする。
「面倒ね!」
空間が連続で裂ける。
無数の刃。
部屋そのものが戦場へ変わる。
家具が砕ける。
壁が裂ける。
宿の悲鳴が下から聞こえる。
レインの呼吸が荒くなる。
怖い。
速すぎる。
見失う。
吐き気。
震え。
それでも。
セレナが前にいる。
一人で戦わせるわけにはいかない。
「固定……!」
レインが魔力を流し込む。
空間固定術式。
未完成。
暴走寸前。
それでも使う。
「止まれ!!」
轟音。
空間が軋む。
一瞬。
転移が止まった。
暗殺者の動きが固まる。
「今!!」
セレナが踏み込む。
炎を纏った超大型大剣。
横薙ぎ。
空気が裂ける。
偽物が消える。
本体だけが残る。
暗殺者が初めて焦った。
転移しようとする。
でも。
動けない。
レインが血を吐きながら術式を維持していた。
「逃がさない……!」
暗殺者の視線がレインへ向く。
殺意。
次の瞬間。
空間刃が飛んだ。
レインへ。
死。
でも。
セレナが割り込む。
斬撃。
鮮血。
「セレナさん!!」
肩が裂けていた。
深い。
レインの顔から血の気が引く。
セレナは歯を食いしばる。
「見るな!」
そして。
笑った。
「集中しなさい」
レインの頭が真っ白になる。
怖い。
嫌だ。
失いたくない。
その感情が爆発する。
「光槍!!」
無数の光が走る。
暗殺者を貫く。
さらに。
「土壁!! 風圧!! 氷鎖!!」
連続魔法。
暴走寸前の魔力量。
空間そのものが押し潰される。
暗殺者が初めて悲鳴を上げた。
そして。
セレナが振り下ろす。
「終わり」
轟炎。
一閃。
暗殺者は完全に両断された。
静寂。
雨音だけが残る。
レインは術式を解除した瞬間、膝をついた。
限界。
セレナがゆっくり近づく。
肩から血が流れている。
それでも彼女は笑った。
「強くなった」
レインの目が揺れる。
「なんで……庇ったんですか」
セレナは当然みたいに答える。
「守りたいから」
レインは言葉を失う。
セレナがしゃがみ込み、額を軽く小突いた。
「勘違いしないで」
「私はまだ、あなたの方が危なっかしく見える」
レインは悔しそうに笑う。
「子供扱いですか」
「少しね」
セレナが優しく目を細める。
「でも」
「ちゃんと隣に立ち始めてるわ」




