93:サイコキネシス
雨が止まない。
基地上空を覆う黒雲は、まるで空そのものが腐り始めているようだった。
焼けた木材の臭い。
血の臭い。
湿った石畳。
そして、空間が歪む嫌な感覚。
転移。
また来る。
誰もがそれを理解していた。
「北側、防壁崩れます!」
「負傷者を下げろ!」
「回復班が足りない!」
怒号が飛び交う。
崩壊しかけた前線基地。
その中央。
セレナが巨大な炎を振り撒いていた。
大剣が振るわれるたび、炎の斬撃が建物ごと魔物を吹き飛ばす。
強い。
圧倒的だった。
普通なら、それだけで戦場が成立する。
だが。
敵が悪すぎた。
ゲートイーター。
空間を侵食し、転移を操る異形。
そして、その周囲を漂うナイトウォーカーたち。
消える。
現れる。
背後を取る。
視界外を狙う。
人の恐怖を喰うように。
戦場が静かに壊れていく。
レインは息を切らしながら索敵を続けていた。
頭痛。
吐き気。
視界が時々白く飛ぶ。
鑑定を使いすぎている。
でも止められない。
止めた瞬間、誰かが死ぬ。
「右!」
セレナが振り返る。
転移してきたナイトウォーカーを炎で叩き斬る。
「左上!」
火柱。
「後方二十!」
兵士が防御を間に合わせる。
レインの索敵は、すでに基地防衛の中核になっていた。
新人冒険者。
弱い男。
役立たず。
そう言われていた少年が、今は最前線を支えている。
本人だけが、それを理解していなかった。
レインは必死だった。
怖い。
怖い。
怖い。
ずっと怖い。
だから見える。
だから気づける。
恐怖に慣れている人間だけが察知できる、わずかな違和感。
それが今のレインの武器だった。
「レイン!」
セレナが呼ぶ。
レインが顔を上げる。
「魔力切れは?」
「……無限なので」
「顔色が死人よ」
「よく言われます」
セレナが苦笑した。
その瞬間。
転移反応。
近い。
レインの目が見開かれる。
「下!!」
地面が裂けた。
空間が開く。
巨大な黒腕。
ゲートイーター。
セレナの足を掴もうとする。
「っ!」
セレナが飛ぶ。
しかし遅い。
黒腕が鎧へ触れる。
空間侵食。
金属が軋む。
「セレナさん!!」
レインが反射的に手を伸ばした。
その瞬間だった。
世界が止まったように見えた。
いや。
止まったのは、“黒腕”だった。
空中で。
完全に。
静止している。
ゲートイーターが初めて困惑したように揺れる。
セレナが目を見開いた。
「……え?」
レイン自身も理解できなかった。
ただ。
止まれと思った。
届くなと思った。
奪うなと思った。
その感情だけで。
空間へ干渉していた。
黒腕が軋む。
見えない力に押し潰されるように。
そして。
爆ぜた。
ゲートイーターが後退する。
セレナが距離を取る。
「今の……何?」
レインが震える。
「わ、分からない……」
頭が痛い。
脳が焼ける。
視界が揺れる。
それでも。
何かが“開いた”。
そんな感覚だけがあった。
ゲートイーターが警戒を始める。
赤い目がレインへ向いた。
殺意。
今までで一番濃い。
空気が凍る。
兵士たちが後ずさる。
「あいつ……レインを狙ってる!」
セレナが前へ出る。
炎が膨れ上がる。
「下がって!」
「でも!」
「早く!」
その瞬間。
転移。
ゲートイーターが消える。
来る。
どこだ。
どこ。
どこ。
レインの鑑定が暴走する。
情報。
空間。
座標。
魔力。
全部が頭へ流れ込む。
「ぐっ……!」
吐きそうになる。
しかし。
見えた。
「上!!」
ゲートイーター出現。
天井。
真上。
セレナが飛ぶ。
だが間に合わない。
敵の方が速い。
黒槍がレインへ落ちる。
死ぬ。
そう思った瞬間。
また力が発動した。
黒槍が空中で止まる。
完全停止。
重力すら無視して。
レインの周囲で震えている。
「……え?」
兵士たちが呆然とする。
レインの黒髪が浮く。
空気が歪む。
無限魔力。
制御不能。
その膨大な力が、意思だけで周囲へ干渉していた。
サイコキネシス。
念動。
魔力を直接“力”へ変換する異常能力。
レインは知らない。
そんな魔法、普通は存在しない。
いや。
存在してはいけない。
だから。
誰も教えられなかった。
黒槍が砕け散る。
ゲートイーターが後退する。
恐れている。
明らかに。
空間系統の上位存在が。
レインを恐れていた。
セレナがレインを見る。
驚き。
そして。
少しだけ。
怖さ。
人間離れした力。
普通なら、そこで距離ができる。
だが。
セレナは違った。
「……無茶しすぎ」
最初に出た言葉は、それだった。
レインが呆ける。
「え……?」
「鼻血」
レインの鼻から血が落ちていた。
腕も震えている。
立っているのがやっとだ。
セレナが近づく。
大きな手がレインの頬へ触れる。
熱い。
炎属性の人間特有の体温。
「限界近いでしょう」
「……まだ、いけます」
「そういう顔してない」
レインは目を逸らした。
情けない。
怖い。
苦しい。
本当は逃げたい。
でも。
セレナが死ぬのは嫌だった。
その感情だけで立っていた。
「……僕」
「うん」
「怖いです」
セレナは黙って聞く。
「ずっと怖い」
「死ぬのも」
「壊れるのも」
「嫌われるのも」
「役に立たないのも」
震える声。
弱い。
本当に弱い。
それでも。
「でも……」
レインが前を見る。
ゲートイーター。
崩れた基地。
逃げ遅れた兵士。
泣いている新人冒険者。
全部が見える。
「セレナさんが戦ってるのに」
「僕だけ逃げるのは……嫌です」
セレナの目が少し揺れた。
この少年は。
強くなったわけじゃない。
まだ弱い。
怖がっている。
震えている。
吐きそうになっている。
それでも。
逃げない。
それがどれだけ難しいか。
セレナは知っていた。
だから。
胸が痛む。
「……本当に」
セレナが小さく笑う。
「大きくなったわね」
レインが目を丸くする。
次の瞬間。
ゲートイーターが再び動く。
転移。
無数。
空間が裂ける。
基地全体が揺れた。
だが。
今度はレインが先に動いた。
手を伸ばす。
見えない力が空間を押し潰す。
転移座標が乱れる。
ゲートイーターが初めて絶叫した。
セレナが笑う。
炎が爆ぜる。
「行くわよ、レイン!」
「はい!」
二人が同時に駆け出した。
雨の中。
壊れかけた戦場を。
一緒に。




