92:見えない殺意
雨はまだ止まない。
前線基地は半壊していた。
崩れた石壁。
焼け焦げた見張り塔。
血と泥が混じった地面。
転移型魔物による奇襲は、基地へ深い傷を残していた。
しかも厄介なのは、敵の姿が見えていても“殺意”が見えないことだった。
気配が消える。
音が消える。
魔力反応すら、一瞬だけ途切れる。
視界の外から現れ、喉を裂き、また消える。
兵士たちの顔には恐怖が張り付いていた。
「どこから来る……」
「後ろを見ろ!」
「違う! 上だ!」
混乱。
悲鳴。
隊列が維持できない。
普通の魔物相手なら成立する戦術が通じない。
だから崩れる。
そして、崩れた場所から死ぬ。
レインは走っていた。
息が苦しい。
胸の奥が痛む。
前回の無理がまだ抜けていない。
それでも止まれなかった。
隣を走るセレナが、時折こちらを見る。
「無理してない?」
「……してます」
「正直ね」
「でも、動けます」
「ならいい」
短いやり取り。
それだけで、不思議と呼吸が整う。
セレナが前を向く。
長い銀髪が雨に濡れて背中へ張り付いていた。
その姿を見ていると、レインは少し安心する。
怖い。
本当に怖い。
でも。
この人がいる。
そう思うだけで、前へ進めた。
「……止まって」
レインが小さく呟く。
セレナが即座に停止する。
「見えた?」
「左の建物」
「二階」
「来ます」
直後。
空間が歪んだ。
ナイトウォーカーが出現する。
セレナの大剣が先に動いた。
炎。
一閃。
魔物の上半身が吹き飛ぶ。
着地。
次。
「後ろ!」
転移。
死角。
セレナが身体を捻る。
しかし間に合わない。
ナイトウォーカーの刃腕が迫る。
レインが反射的に魔法を展開した。
「水壁!」
水流が割り込み、斬撃を逸らす。
セレナがそのまま回転斬り。
首が飛ぶ。
黒い血が雨へ混じった。
「……助かった」
セレナが短く言う。
レインは目を瞬く。
今。
助かった、と。
この人が。
自分に。
胸の奥が熱くなる。
「い、いえ……!」
「照れてる場合じゃない」
「はい!」
でも、少し嬉しかった。
前なら考えられない。
守られるだけだった自分が、今はセレナを支えている。
少しだけ。
本当に少しだけ。
それでも。
確かに。
その実感があった。
基地中央区画へ近づくにつれ、空気が変わっていく。
冷たい。
嫌な感じだ。
魔力が濁っている。
転移陣が増えていた。
石畳へ浮かぶ黒い紋様。
脈動する魔力。
そこから次々ナイトウォーカーが現れる。
「多すぎる……!」
兵士たちが押される。
防衛線が崩れ始めていた。
セレナが前へ出る。
「レイン!」
「転移先を読む!」
「僕が索敵します!」
レインは目を閉じた。
鑑定。
空間。
魔力。
流れ。
歪み。
普通の人間には見えないものが、彼には見える。
そして。
その奥。
何かがおかしい。
「……違う」
「え?」
「敵、わざと散ってる」
セレナの目が細まる。
「誘導?」
「はい」
レインの顔色が悪くなる。
「中央へ集めてる」
「人を」
その瞬間。
遠くで爆発が起きた。
食料庫。
炎が上がる。
「しまっ――」
セレナが走り出す。
レインも追う。
食料庫前は地獄だった。
荷車が燃えている。
保存樽が砕け、乾燥肉が泥へ散乱していた。
兵士たちが消火している。
だが。
火より問題なのは。
「転移陣……!」
食料庫内部に巨大な魔法陣が浮かんでいた。
そこから現れたのは。
異形だった。
人型。
だが、身体が崩れている。
黒い霧。
長い腕。
顔がない。
そして。
目だけがある。
赤い。
無数の目。
兵士たちが凍りつく。
「なんだ、あれ……」
「見たことない……」
レインの鑑定が暴れた。
警告。
危険。
上位。
精神侵食。
転移操作。
統率個体。
「……《ゲートイーター》」
レインが呟く。
セレナが険しい顔をする。
「知ってるの?」
「文献だけ……」
レインの喉が乾く。
「転移魔法を喰う魔物です」
「空間を壊して、繋げる」
「最悪だと、基地全部をダンジョンと直結される」
セレナの目が変わる。
即座に理解した。
これはただの襲撃じゃない。
侵食だ。
基地そのものを飲み込む気だ。
ゲートイーターが笑った。
口はない。
なのに笑っている感覚だけが伝わる。
気持ち悪い。
頭の奥へ直接響く。
兵士が一人、膝をついた。
「う……」
次々崩れる。
恐怖。
精神汚染。
殺意が見えない。
いつ死ぬか分からない。
その恐怖だけで人が壊れていく。
「下がれ!!」
セレナが怒鳴る。
炎が爆発した。
巨大な火柱。
ゲートイーターへ直撃。
しかし。
空間が歪む。
炎が消えた。
「っ……!」
転移。
攻撃そのものを別空間へ逃がした。
セレナの顔が険しくなる。
「面倒ね……!」
ゲートイーターが消える。
次の瞬間。
セレナの真後ろへ現れた。
「セレナさん!!」
レインが叫ぶ。
セレナが振り向く。
間に合わない。
黒い腕が伸びる。
その瞬間。
レインの身体が動いていた。
「風鎖!」
風が絡みつく。
一瞬だけ止まる。
セレナが炎を纏った蹴りを叩き込んだ。
轟音。
ゲートイーターが吹き飛ぶ。
しかし。
また消える。
「……厄介すぎる」
セレナが低く言う。
レインは息を切らしながら周囲を見る。
見えない。
でも。
完全には消えていない。
空間が揺れる。
ほんの少し。
そこだけ空気が違う。
「……分かる」
「え?」
「転移の癖」
レインの目が変わる。
恐怖の中で。
必死に。
見ている。
逃げない。
理解しようとしている。
「来る位置が微妙に偏ってる」
「右斜め後ろ」
「視界外」
「人が油断した瞬間を狙ってる」
セレナが驚いた顔をした。
「そんなの見えるの?」
「……怖いからです」
レインの声は震えていた。
「ずっと警戒してるから」
その言葉に、セレナの胸が少し痛む。
この子は。
ずっと怖いのだ。
今も。
震えている。
それでも。
必死に前を見ている。
逃げないために。
「……レイン」
「はい」
「後ろ、任せてもいい?」
レインが目を見開く。
頼られた。
また。
胸が熱くなる。
「……はい」
「任せてください」
セレナが笑う。
強い笑みだった。
「じゃあ、前は私が壊す」
炎が吹き上がる。
大剣を構える。
レインはその背中を見る。
そして。
初めて思った。
守られたい、じゃない。
この人の隣で戦いたい。
支えたい。
生き残りたい。
一緒に。
その感情は、もう憧れだけではなかった。




