91:転移する敵
血の匂いが、まだ消えていなかった。
前線基地の医療棟は、夜になっても灯りが落ちない。
負傷兵の呻き声。
薬品の臭い。
治癒魔法の淡い光。
慌ただしく動き回る治療班。
戦いは終わっていなかった。
黒竜との戦闘で崩壊した坑道は未だ閉鎖され、周辺では断続的に魔物の討伐が続いている。
基地全体が疲弊していた。
それでも壊れなかったのは、食料供給が維持されているからだ。
炊き出しの煙が夜空へ上がる。
パンを焼く香り。
薄いスープ。
塩漬け肉。
粗末でも、温かい飯があるだけで人は立てる。
レインが提案した保存管理と補給分配は、今や基地の生命線になっていた。
医療棟の一室。
ベッドの上で、レインは薄く目を開けた。
全身が痛い。
特に胸の奥。
魔力を無理矢理押し流した代償が、身体中へ残っていた。
呼吸するだけで軋む。
「……起きた?」
静かな声。
横を見る。
セレナが椅子に座っていた。
銀髪が灯りに照らされている。
疲れている。
目の下に薄い隈。
でも、彼女はいつも通り背筋を伸ばしていた。
「……セレナさん」
「水飲む?」
「……お願いします」
起き上がろうとして、激痛が走る。
「っ……」
「無理しない」
セレナが手を伸ばし、ゆっくり支える。
大きな手だった。
硬い。
剣を握り続けた手。
それなのに、不思議と優しい。
レインは少しだけ身体を預けた。
前なら絶対にできなかった。
でも今は、嫌じゃない。
むしろ安心する。
セレナがコップを口元へ寄せる。
「飲める?」
「……子供じゃないです」
「知ってる」
少し笑う。
その笑顔を見て、レインの胸が温かくなる。
「どれくらい寝てました?」
「半日くらい」
「そんなに……」
「無茶したから」
セレナの声は穏やかだった。
怒ってはいない。
でも。
少しだけ震えていた。
「……怖かった」
ぽつりと漏れる。
レインが目を見開く。
セレナは視線を落としていた。
「あなたが崩れた時、本当に駄目かと思った」
「魔力暴走寸前だったし」
「身体の中、かなり壊れてた」
「あと少しズレたら、死んでたわよ」
レインは黙る。
あの時は必死だった。
考える余裕なんてなかった。
ただ。
守りたかった。
「……すみません」
「謝らなくていい」
セレナは即答した。
「助けられた」
「みんな」
「私も」
その言葉が、レインの胸へ深く落ちる。
嬉しい。
でも。
それ以上に、苦しい。
守れた。
なのに。
もっと強ければ。
もっと上手くやれた。
そんな感情が残っている。
「……まだ弱いです」
レインは小さく呟く。
「うん」
「もっと強くならないと」
「うん」
「セレナさんの隣に立てない」
セレナの目が揺れた。
レインは言った後で固まる。
今の、完全に変だった。
何を言ってるんだ自分は。
顔が熱くなる。
「ち、違います、その、変な意味じゃなくて……!」
「変じゃない」
セレナが静かに言う。
レインが止まる。
「……嬉しかったから」
その声は小さかった。
戦場では聞けない声。
強いS級冒険者ではなく。
一人の女性の声だった。
レインの心臓が跳ねる。
沈黙。
雨音だけが響く。
その時だった。
基地全体に警鐘が鳴り響く。
甲高い音。
何度も。
何度も。
セレナの顔色が変わる。
「……異常警報?」
直後。
医療棟の外から怒号が響いた。
「転移だ!!」
「敵が内部へ出たぞ!!」
「なっ……!?」
セレナが立ち上がる。
窓の外。
基地内部で爆発が起きていた。
炎。
悲鳴。
混乱。
「そんな……内部に直接!?」
通常、ダンジョン魔物は前線から侵攻する。
転移なんてあり得ない。
基地内へ直接出現するなど、聞いたこともない。
セレナが剣を掴む。
「レイン、動ける?」
「……はい」
本当は動けない。
身体は限界だ。
でも。
座っていられない。
外へ出る。
雨。
炎。
崩れる建物。
基地中央に、黒い魔法陣が浮かんでいた。
そこから魔物が現れている。
「転移型……!」
セレナが舌打ちする。
「最悪ね……!」
出現したのは、人型魔物だった。
黒い外殻。
長い腕。
顔がない。
影のような身体。
《ナイトウォーカー》。
上位個体。
しかも数が多い。
兵士たちが次々斬られる。
「ぐあああ!」
「どこから出てくる!?」
「後ろだ!!」
ナイトウォーカーは瞬間移動していた。
視界から消え、別位置へ現れる。
厄介すぎる。
隊列が崩壊する。
セレナが前へ出た。
「レイン!」
「転移位置、読める!?」
レインは鑑定を発動する。
視界が歪む。
魔力の流れ。
空間の歪み。
転移の兆候。
「……見える」
「右後方!」
セレナが即座に振り向く。
そこへ現れたナイトウォーカーを、大剣で叩き潰した。
爆炎。
黒い血。
「次!」
「上!」
空中転移。
セレナが炎を纏って跳ぶ。
空中で両断。
着地。
速い。
圧倒的。
でも。
敵の数が多すぎる。
さらに。
転移魔法陣は増えていた。
「嘘でしょ……」
兵士の声が震える。
三つ。
五つ。
七つ。
基地内部の各所へ魔法陣が展開されていく。
食料庫。
治療棟。
避難区画。
全部を狙っている。
「統率型……!」
セレナの顔が険しくなる。
偶然じゃない。
これは作戦だ。
基地機能を壊しに来ている。
レインは息を呑む。
鑑定が反応する。
奥。
転移陣のさらに向こう。
巨大な魔力。
指揮個体。
「……いる」
「何が」
「親玉です」
レインの顔から血の気が引く。
「たぶん、転移を操ってる」
セレナが即座に理解する。
「倒せば止まる?」
「……分かりません」
「でも、可能性はある」
セレナは一瞬だけ考えた。
そして決断する。
「レイン」
「はい」
「行ける?」
レインは喉を鳴らす。
怖い。
怖すぎる。
でも。
セレナが、自分を見ている。
信じている。
頼っている。
その事実が、胸を熱くした。
「……行きます」
セレナが頷く。
「私が道を開く」
「あなたは後ろから見ろ」
「全部」
「転移も」
「敵も」
「流れも」
「あなた、そういうの得意でしょ」
レインは目を見開く。
信頼されている。
初めて。
こんな風に。
胸の奥が震える。
恐怖じゃない。
違う感情だった。
「……はい」
レインは剣を握る。
雨の中。
炎の中。
崩れた基地を駆け出す。
セレナが前を走る。
巨大な背中。
でも。
今のレインは、もうただ追いかけるだけじゃない。
隣へ行きたいと思っている。
その想いが。
少しずつ。
彼を変え始めていた。




