9:食え
目を覚ました時、レインは自分がどこにいるのか分からなかった。
薄暗い木の天井。
古いランプ。
小さな机。
そして、鼻をくすぐる香草の匂い。
「……」
ぼんやりした頭で周囲を見る。
宿の部屋だった。
昨日、自分の部屋へ戻ったところまでは覚えている。
迷宮。
血の匂い。
吐き気。
身体へ流れ込んだ黒い霧。
その後、熱が上がって。
そこで記憶が曖昧になっていた。
「起きた?」
声。
レインの肩が跳ねる。
部屋の隅。
椅子へ座っていたセリナが、こちらを見ていた。
銀髪が朝の光に照らされている。
片手には酒瓶。
机には空になった瓶が二本。
「……え」
レインは慌てて起き上がろうとして、頭を押さえた。
「痛っ……」
「急に起きるからよ」
セリナは呆れたように言う。
「熱、かなり上がってたわ」
「……すみません」
「本当に謝るの好きね」
レインは反射的に口を閉じた。
セリナは小さく笑う。
怒ってはいない。
少しだけ、安心する。
「……あの」
「何」
「ずっと、いたんですか」
「途中で寝たけど」
セリナは酒瓶を軽く揺らした。
「高熱で死なれたら面倒でしょう」
そう言いながらも、ちゃんと部屋に残っていた。
レインは胸の奥が少し熱くなる。
こんな風に誰かが傍にいてくれたことなんて、ほとんどなかった。
家族ですら忙しかった。
弱い自分に構う余裕なんて、誰にもなかった。
「水飲みなさい」
セリナがコップを差し出す。
レインは受け取った。
冷たい水が喉を通る。
身体へ染み込む感じがした。
「……ありがとうございます」
「うん」
短い返事。
静かな空気。
窓の外では朝のレグナードが動き始めている。
荷馬車の音。
パン屋の鐘。
市場の声。
都市国家は今日も止まらない。
「……良い匂い」
レインが呟く。
その瞬間、セリナが少し視線を逸らした。
「……下で買ってきた」
机の上を見る。
布をかけられた鍋。
パン。
焼いた肉。
湯気が立っている。
レインは驚いた。
「俺の、ですか」
「他に誰がいるの」
セリナは少しだけ不機嫌そうに言う。
でも耳がほんの少し赤い。
レインは気づかない。
「食え」
短い一言。
でも、その言葉は妙に温かかった。
レインはベッドから降り、机へ座る。
鍋の蓋を開ける。
香草と豆のスープ。
刻んだ野菜。
柔らかく煮込まれた肉。
安宿の食事にしてはかなり良かった。
「……美味しそう」
「ちゃんとした店で買ったから」
セリナは何でもない顔で酒を飲む。
レインはスープを口へ運んだ。
温かい。
身体の奥まで熱が落ちていく。
「……美味しい」
「そう」
セリナは少しだけ安心したように息を吐いた。
レインはパンをちぎる。
ふと気づく。
「……セリナさん、食べないんですか」
「私は後で」
「……」
本当はもう食べたのかもしれない。
あるいは、ずっと看病していて食べていないのか。
レインには分からない。
でも。
この人は自分より他人を優先する。
それだけは少し分かってきた。
「……半分、食べますか」
レインは恐る恐るパンを差し出した。
セリナが少し目を丸くする。
「……私に?」
「……はい」
「なんで」
「その……まだ食べてないかもって」
セリナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「優しいのね」
レインの顔が赤くなる。
「べ、別に……」
「そういうところよ」
「……え?」
「放っておけないの」
セリナはパンを受け取った。
指先が少し触れる。
レインの心臓が跳ねた。
セリナは気づかないふりをしてパンを口へ運ぶ。
「……美味しい」
「はい」
小さな会話。
でも、嫌じゃない。
むしろ落ち着く。
二人はしばらく静かに食事を続けた。
窓から朝日が差し込む。
銀髪が淡く光る。
綺麗だ、とレインは思った。
見惚れるくらい。
でもそんなことを口に出せるはずもない。
「……何」
「えっ」
「さっきから見てる」
レインの顔が一気に熱くなる。
「ち、違っ……」
「違わない顔してるけど」
セリナは少し楽しそうだった。
レインは完全に視線を逸らした。
耳まで赤い。
その反応が面白かったのか、セリナは肩を揺らして笑う。
綺麗な笑い方だった。
豪快ではない。
少し疲れていて。
でも柔らかい。
「……熱、下がってきたわね」
セリナがレインの額へ手を当てる。
冷たい指。
近い。
レインの呼吸が止まりそうになる。
「……っ」
「まだ少し高い」
セリナは自然に言う。
レインだけが勝手に緊張していた。
「今日は休みなさい」
「でも、迷宮……」
「死ぬ気?」
真顔だった。
レインは即座に黙る。
「弱い時は休む」
セリナは椅子へ深く座った。
「強くなる人間は、自分の限界を知ってる」
「……」
「無理して壊れる子、何人も見てきたから」
その声は静かだった。
レインは聞けなかった。
誰を失ったのか。
どんな後悔を抱えているのか。
でも、きっと重いのだと思った。
「……セリナさん」
「何」
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
小さな声。
セリナは少しだけ考える。
窓の外を見る。
朝日。
動き始める街。
人の流れ。
「……昔ね」
セリナがぽつりと呟く。
「誰にも拾われなかった子を見たことがあるの」
レインは黙って聞く。
「強くなれなかった」
「助けてもらえなかった」
「誰にも必要とされなかった」
セリナは酒を一口飲む。
「そういう子は、静かに消える」
レインの胸が痛くなる。
それは少しだけ、自分の未来みたいだった。
「だから」
セリナがレインを見る。
「目の前で死にそうな子くらいは、拾うことにしてる」
その言葉。
レインは何も返せなかった。
優しい。
本当に。
でも、この人はその優しさで傷ついてきたのだと思う。
人を見捨てられなくて。
全部背負おうとして。
それでも助けきれなくて。
だから時々、こんなに疲れた顔をする。
「……食べ終わった?」
「は、はい」
「よし」
セリナは立ち上がった。
長い脚。
揺れる銀髪。
「洗い物するから、あなたは寝てなさい」
「え、俺やります」
「熱ある人間にさせるわけないでしょう」
そう言って鍋を持っていく。
レインは呆然とその背中を見ていた。
最強の冒険者。
戦えば圧倒的。
迷宮の最前線に立つ存在。
なのに今、安宿の小さな流しで皿を洗っている。
その光景が妙に現実的で。
妙に温かかった。
レインはぼんやり思う。
もっと強くなりたい、と。
この人に守られるだけじゃなく。
いつか。
少しでも支えられるくらいに。




