8:吐いた夜
レグナードへ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
都市国家を囲む巨大外壁の上では、夜警用の魔導灯が青白く灯っている。門前では行商人たちが荷馬車を整理し、帰還した冒険者たちが疲れた顔でギルドへ流れ込んでいた。
夜のレグナードは賑やかだ。
食堂から漂う香草スープの匂い。
焼き肉の煙。
パン窯の熱。
迷宮都市は夜に金が動く。
生きて帰ってきた人間が、飯を食い、酒を飲み、明日の生存へ金を使うからだ。
レインはその流れの中を、少しふらつきながら歩いていた。
「……」
身体が熱い。
頭も重い。
迷宮で起きた“あれ”のせいだ。
ゴブリンを倒した直後、黒い霧のようなものが身体へ流れ込んできた。
その瞬間、頭の中へ知らない感覚が流れ込んだ。
【棍棒術・初級】
あれは何だったのか。
理解できない。
ただ、今も身体の奥に違和感が残っている。
まるで自分ではない何かが、内側で呼吸しているみたいだった。
「顔色、本当に悪いわね」
隣を歩くセリナが言う。
レインは慌てて背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫な人間はそんな歩き方しない」
即答だった。
レインは少し黙る。
セリナはため息を吐いた。
「今日は宿で休みなさい」
「……でも」
「反論する元気あるの?」
「……ありません」
「素直でよろしい」
少しだけ笑う。
その表情が、レインは好きだった。
強い人なのに、時々柔らかい顔をする。
そのギャップが妙に胸へ残る。
ギルドへ戻ると、酒場は既に満席に近かった。
大声。
笑い声。
食器の音。
レインは人混みが苦手だ。
自然と身体が縮こまる。
セリナはそんなレインを見て、小さく首を傾げた。
「隅の席行く?」
「……あ」
「そっちの方が楽でしょう」
レインは少し驚く。
言っていない。
でもセリナはちゃんと見ている。
人混みで肩が強張ることも。
目線を落としてしまうことも。
「……はい」
二人は酒場の奥へ座った。
木製の丸テーブル。
薄暗いランプ。
騒がしさが少し遠い。
レインはほっと息を吐く。
セリナは慣れた様子で料理を注文した。
「肉とスープ。あとパン」
「酒は?」
店員が聞く。
「当然」
即答だった。
レインは少しだけ笑いそうになる。
セリナは本当に酒が好きらしい。
しばらくして料理が運ばれてくる。
焼き肉。
豆のスープ。
黒パン。
迷宮帰りの冒険者向けらしく、味は濃い。
「食べなさい」
「……いただきます」
レインはスープを口に運ぶ。
温かい。
胃へ落ちる熱が、少しだけ身体を楽にした。
「……美味しい」
「今日は塩加減が良いわね」
セリナは酒を飲みながら頷く。
「前の料理長が辞めて、新しい人が入ったの」
「そうなんですか」
「食事が良くなると、人は集まるのよ」
セリナは窓の外を見る。
「宿屋も、商会も、冒険者も」
「……」
「国って、結局は人の集まりだから」
レインは静かに聞いていた。
セリナは戦うことだけ考えている人ではない。
ちゃんと街を見ている。
人を見ている。
その視線が、レインには少し眩しかった。
その時だった。
ふらり。
急に視界が揺れる。
「……っ」
胃がひっくり返る。
身体の奥が熱い。
「レイン?」
セリナが眉を寄せる。
次の瞬間。
「ぅ……っ、おぇ……!」
レインは席を立ち、そのまま酒場の外へ飛び出した。
石畳へ膝をつく。
吐いた。
胃液。
昼の食事。
酸っぱい臭い。
「はっ……ぁ……!」
呼吸が乱れる。
苦しい。
頭が痛い。
胸の奥で何かが暴れている。
「レイン」
後ろからセリナが来る。
レインは情けなさで消えたくなった。
「……すみません」
「謝らなくていい」
セリナはしゃがみ込み、背中へ手を当てた。
温かい。
「熱があるわね」
「だ、大丈夫です……」
「それ、便利な言葉だと思ってるでしょう」
少し呆れた声。
でも怒ってはいない。
レインは壁へ寄りかかる。
夜風が冷たい。
「……迷宮で、変な感じがして」
「黒い霧のこと?」
レインは頷いた。
「何かが、頭に入ってきたみたいで……」
「……」
「知らない動きとか、感覚とか」
セリナの表情が少し変わる。
真剣な顔。
「それ、誰かに見せた?」
「いえ……」
「ならまだ黙ってなさい」
即答だった。
レインは驚く。
「え……」
「珍しい能力は、それだけで狙われる」
セリナの声は静かだった。
「商会」
「貴族」
「研究者」
「面倒な人間は多いの」
レインは小さく頷く。
少し怖くなる。
自分の知らないところで、世界はもっと複雑なのかもしれない。
セリナはそんなレインを見て、小さく息を吐いた。
「歩ける?」
「……はい」
「宿まで送るわ」
「え、でも」
「その状態で一人にできない」
当然みたいに言う。
レインは何も言えなくなる。
優しい。
本当に。
でもセリナ自身は、それを特別だと思っていない。
二人は夜道を歩いた。
石畳。
魔導灯。
夜の市場。
パン屋の前では、翌朝用の仕込みが始まっている。
肉屋では塩漬け加工。
遠くでは鍛冶場の火花。
都市国家レグナードは、夜でも止まらない。
人が生きるために、街が動き続けている。
「……綺麗ですね」
レインがぽつりと言う。
「何が?」
「街です」
セリナは少し目を細めた。
「そうね」
「私も嫌いじゃない」
宿へ着く。
古い木造宿。
レインが扉を開けようとすると、急に身体が揺れた。
「っ……」
倒れかける。
その瞬間。
セリナが腕を掴んだ。
近い。
銀髪の香り。
酒と香草の匂い。
レインの心臓が跳ねる。
「本当に限界じゃない」
「……すみません」
「今日はもう黙りなさい」
セリナは呆れたように笑った。
そして、そのままレインを支えながら階段を上がる。
宿の廊下は静かだった。
部屋へ入る。
狭い部屋。
小さな机。
古いベッド。
セリナはレインをベッドへ座らせた。
「水飲みなさい」
「……はい」
レインは震える手でコップを持つ。
その様子を、セリナは黙って見ていた。
無理していることも。
怖がっていることも。
限界なのに立っていることも。
全部見えている。
「……レイン」
「はい」
「怖い?」
レインは少し黙る。
隠しても無駄だと思った。
「……怖いです」
「何が?」
「全部」
迷宮も。
魔物も。
死ぬことも。
自分の能力も。
「でも」
レインは小さく拳を握る。
「逃げたく、ないです」
セリナはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「そう」
静かに微笑む。
「それなら大丈夫」
その声は、不思議と安心できた。
レインの瞼が重くなる。
熱。
疲労。
安心感。
全部が混ざって、意識が沈んでいく。
最後に見えたのは。
椅子へ座り、静かに酒を飲むセリナの横顔だった。
最強の冒険者。
強くて。
綺麗で。
少し疲れている人。
レインはぼんやり思う。
この人といると、
少しだけ生きていていい気がする、と。




