7:血の匂い
レグナード地下迷宮。
第一階層。
湿った空気が、肌へまとわりつく。
岩肌には青白い発光苔が広がり、薄暗い通路をぼんやり照らしていた。地上の冷たい風とは違う。地下特有の重い熱気と、生臭い湿気が混ざっている。
水滴が天井から落ちる音。
遠くから聞こえる魔物の唸り声。
鉄の匂い。
血の匂い。
「……っ」
レインは無意識に息を止めていた。
怖い。
胃が縮む。
胸の奥が冷える。
地上とは違う。
ここは、本当に人が死ぬ場所だった。
セリナは迷いなく前を歩いている。
銀髪が薄暗い迷宮の光を反射する。
巨大な大剣を背負っているのに、足音は驚くほど静かだった。
「呼吸」
前を向いたままセリナが言う。
「止まってるわよ」
「……え」
「力みすぎ」
レインは慌てて息を吐いた。
自分でも気づいていなかった。
「迷宮では視界より音を使いなさい」
セリナは岩壁へ軽く触れる。
「水音」
「足音」
「息遣い」
「慣れると分かるようになる」
レインは小さく頷いた。
だが余裕はない。
耳の奥では自分の心臓の音ばかり響いている。
怖い。
本当に。
それでも、セリナの背中を見ると少しだけ落ち着いた。
この人がいる。
それだけで違う。
「今日は深く潜らないわ」
セリナが歩きながら言う。
「第一階層の外周だけ」
「……はい」
「目的は戦闘じゃない」
そこで一度振り返る。
「“慣れる”こと」
レインは唇を噛む。
慣れる。
こんな場所に。
こんな血の匂いに。
そんな日が来るのだろうか。
その時だった。
セリナの手が軽く上がる。
「止まって」
レインの身体が硬直する。
静か。
水滴の音しか聞こえない。
でも。
いた。
通路の先。
暗闇の中で赤い目が揺れている。
「ゴブリン二匹」
セリナの声は落ち着いていた。
「右は短剣」
「左は棍棒」
レインの喉が鳴る。
怖い。
昨日の感覚が蘇る。
剣を握る手が震える。
セリナはそれを見ていた。
何も言わない。
責めない。
ただ静かに観察している。
「レイン」
「……は、はい」
「今回は私がやる」
その言葉に、レインは少しだけ安堵した。
情けないと思う。
でも、安心してしまった。
「よく見てなさい」
セリナが前へ出る。
次の瞬間。
空気が変わった。
熱。
迷宮の冷えた空気が一瞬で揺らぐ。
セリナの身体から赤い魔力が立ち上る。
火属性。
身体強化。
岩床が小さく軋む。
「ギッ!?」
ゴブリンが反応した時には遅かった。
セリナが消える。
いや、速すぎて見えない。
轟音。
次の瞬間、棍棒持ちのゴブリンが壁へ叩き潰されていた。
肉と骨が砕ける音。
血飛沫。
レインの身体が強張る。
残った一匹が悲鳴を上げて飛び退く。
だが。
セリナは既に背後へ回っていた。
巨大な大剣。
普通なら持ち上げるだけでも難しい武器。
それを片手で振るう。
赤い軌跡。
火花。
ゴブリンの身体が真っ二つになった。
静寂。
血が地面を流れる。
「……」
レインは言葉を失った。
強い。
圧倒的だった。
技術も。
速度も。
迷いの無さも。
何より、“死”への距離感が違う。
セリナは剣を軽く振って血を払う。
その動作すら綺麗だった。
「……これが」
レインの声が震える。
「S級……」
「まだ準備運動よ」
セリナは平然としていた。
それが余計に凄かった。
レインは倒れたゴブリンを見る。
血。
肉片。
鉄臭い匂い。
「っ……」
吐き気が込み上げる。
レインは壁へ手をついた。
胃がひっくり返る。
「おぇっ……」
吐いた。
酸っぱい胃液だけ。
情けない。
こんなの、自分だけだ。
セリナはそんなレインの背中へ手を置いた。
「無理に慣れなくていい」
「……すみません」
「だから謝らなくていいの」
セリナはため息混じりに言った。
「初めて人型を斬った時、吐かなかった冒険者なんてほとんどいないわ」
「……でも」
「平気な顔してる人ほど危ない」
レインは顔を上げる。
セリナは倒れたゴブリンを見ていた。
「死に慣れすぎると、人は壊れるから」
その言葉には重みがあった。
実際に壊れていった人間を、何人も見てきた声だった。
「……セリナさんは」
レインは恐る恐る聞く。
「壊れてないんですか」
少しだけ沈黙が落ちる。
発光苔の青白い光が、セリナの横顔を照らしていた。
「半分くらいは壊れてるかもしれないわね」
冗談みたいに笑う。
でも、その笑顔は少し疲れていた。
レインは胸が苦しくなる。
最強。
皆が憧れる存在。
でもこの人は、何かを失い続けてきた。
強くなるほど、人を失って。
それでも立ち続けている。
「……帰ったら」
セリナがふと話題を変える。
「甘い物、食べましょうか」
「……え?」
「最近、新しい菓子屋ができたの」
意外すぎて、レインは固まった。
セリナは視線を逸らす。
「別に、好きってわけじゃないけど」
絶対好きだ。
レインはそう思った。
でも口には出せない。
「……はい」
少しだけ笑ってしまう。
セリナはその顔を見て、小さく息を吐いた。
「そのくらいの顔をしてなさい」
「……え」
「ずっと死にそうな顔されると、こっちまで疲れるわ」
レインは慌てて真顔に戻る。
するとセリナが少し笑った。
迷宮の中なのに。
血の匂いがする場所なのに。
不思議と空気が柔らかかった。
その時だった。
ピクリ。
レインの身体に妙な感覚が走る。
胸の奥。
熱い。
魔力が揺れている。
「……っ?」
次の瞬間。
ゴブリンの死体から、薄い黒い霧のようなものが浮かび上がった。
レインの方へ流れてくる。
「な……」
吸い込まれる。
身体の奥へ。
熱い。
頭が痛い。
「っ……ぁ……!」
レインが膝をつく。
セリナの表情が変わった。
「レイン!?」
身体の内側が暴れている。
膨大な魔力。
自分のものではない感覚。
脳へ直接流れ込むような異物感。
「はっ……ぁ……!」
息が苦しい。
視界が揺れる。
その瞬間。
レインの脳裏に、意味不明な情報が浮かんだ。
【棍棒術・初級】
「……え」
セリナがレインの肩を掴む。
「しっかりしなさい!」
レインは荒い息を吐きながら、呆然としていた。
今のは何だ。
身体へ流れ込んだ感覚。
知らない技術。
知らない動き。
まるで、自分の中へ誰かの経験が入り込んだみたいだった。
セリナは真剣な顔でレインを見る。
「……今、何が起きたの」
レインは答えられなかった。
ただ。
胸の奥で。
何かが静かに目を覚まし始めていた。




