88:「大きくなったな」
前線基地に、ようやく少しだけ日常が戻り始めていた。
崩れていた石壁は土魔法で補強され、壊れた見張り塔も簡易修復が終わっている。
水路には澄んだ水が流れ始め、炊き出しの煙が朝空へ上がっていた。
死と隣り合わせの場所でも、人は腹が減る。
食べなければ動けない。
動けなければ守れない。
だからこの世界では、「食」は生存そのものだった。
「塩、足りないぞー!」
「こっち肉追加!」
「野菜切る人手くれ!」
朝から騒がしい炊き出し場を横目に、レインは治療室の窓際へ座っていた。
まだ本調子ではない。
立つだけでも疲れる。
魔力回路の損傷も残っている。
それでも、少しずつ身体は回復していた。
窓から入る風が気持ちいい。
雨が続いていたせいか、晴れた空がやけに綺麗に見える。
「起きてたの」
扉が開く。
セレナだった。
銀髪を後ろで軽く結び、動きやすい黒シャツ姿になっている。
鎧はまだ修理中だ。
それでも圧倒的に目立つ。
長身。
整った顔。
自然に漂う色気。
前線基地の男たちがちらちら見てしまうのも無理はない。
本人は全く気にしていなかった。
「……おはようございます」
「おはよう」
セレナがレインの額へ手を当てる。
自然な動作。
熱を確認する仕草。
「熱は下がったわね」
「はい。かなり楽です」
「嘘」
「……少し楽です」
「正直でよろしい」
セレナは笑う。
最近、少し笑う回数が増えた。
前はもっと乾いた笑い方をしていた。
どこか諦めたような。
でも今は違う。
レインといる時だけ、少し柔らかい。
「朝ご飯持ってきた」
木盆の上には湯気の立つスープ。
焼きたての平パン。
細かく刻まれた燻製肉。
それに野菜を煮込んだ温かいシチュー。
「……豪華ですね」
「前線仕様よ」
「前線ってもっと硬いパンと干し肉のイメージでした」
「本来はそう。でも今は補給隊が頑張ってる」
セレナは窓の外を見る。
「食事が崩れると、前線は一気に壊れるから」
レインも視線を向ける。
大鍋。
列を作る兵士。
忙しく走る料理人たち。
怪我人用の薄味スープ。
高カロリー食。
保存用の燻製。
全部が戦場を支えていた。
「……すごいですね」
「食は戦力よ」
セレナは椅子へ座る。
「昔、補給が崩壊した戦場を見たことある」
静かな声だった。
「食べ物がなくなると、人はすぐ壊れる」
「戦えなくなる?」
「それだけじゃない」
セレナは少し目を細める。
「疑い始めるの」
「……疑い?」
「仲間を。上を。自分を」
レインは黙って聞く。
「空腹ってね、心を削るのよ」
セレナの言葉は重かった。
実感がある声だった。
「だから国は、食を握る」
「だから商人は強い」
「だから農地と水路は戦争になる」
レインは小さく息を吐く。
この世界は、思っていたよりずっと現実だった。
剣と魔法だけじゃない。
飯がなければ全部終わる。
「……セレナさんって、なんでも知ってますね」
「長く生きてるから」
「二十八でそれ言うの、お姉さん感すごいです」
セレナがじっと見る。
「何?」
「いえ」
「今、年齢のこと考えたでしょ」
「考えてないです」
「嘘つき」
レインが少し笑う。
その顔を見て、セレナの目が柔らかくなる。
本当に、表情が変わった。
最初の頃はもっと酷かった。
怯えて。
縮こまって。
誰とも目を合わせなかった。
今も根本は変わらない。
怖がりだし、自信もない。
でも。
ちゃんと笑うようになった。
人を見るようになった。
そして。
自分へ寄りかかることを覚え始めた。
「……ねえ、レイン」
「はい?」
「ちょっと立ってみなさい」
「え?」
「いいから」
レインはゆっくり立ち上がる。
まだ少しふらつく。
セレナが自然に腕を支えた。
「危なっかしい」
「すみません」
「謝らない」
レインは苦笑する。
セレナは彼を見上げた。
そして。
ふっと笑う。
「……大きくなったな」
「え?」
「最初に会った時より、ちゃんと前向いてる」
レインが固まる。
予想外だった。
もっと強さとか、魔法とか、戦闘の話をされると思っていた。
でもセレナは違った。
見ていたのはそこじゃない。
「前は、すぐ下見てた」
「……」
「声も小さかったし、人にぶつからないように歩いてた」
「……今も似たようなものです」
「今は違う」
セレナが真っ直ぐ言う。
「ちゃんと立ってる」
レインの胸が少し苦しくなる。
そんな風に見られたことがなかった。
誰かに。
自分の変化を。
努力を。
怖がりながら進んだことを。
ちゃんと見てもらえたことなんて。
「……セレナさんは」
レインが小さく言う。
「そういうところ、本当に見てますよね」
「見るわよ」
「なんで」
セレナは少し考える。
そして静かに答えた。
「昔、見れなかったから」
レインが目を瞬く。
「強さばかり見てた」
セレナの視線が遠くなる。
「結果だけ見てた」
「勝てるかどうか」
「役に立つかどうか」
「死なないかどうか」
低い声。
「でも、それだけじゃ駄目だった」
仲間を失った。
弟子を失った。
裏切られた。
強さだけを見続けた結果、心を見失った。
「だから今は、ちゃんと見るようにしてる」
セレナはレインを見る。
「小さい努力も」
「怖がってる顔も」
「無理してる時も」
「ちゃんと見てる」
レインは言葉を失う。
そんな風に言われたら。
もう誤魔化せない。
自分はずっと。
見てほしかったのかもしれない。
役立たずでも。
弱くても。
怖がっていても。
それでも頑張ってるって。
誰かに。
「……泣きそうな顔してる」
「してません」
「してる」
セレナが笑う。
そして。
自然にレインの頭を撫でた。
大きな手。
温かい。
レインが固まる。
「せ、セレナさん」
「何?」
「それ、子供扱いです」
「そうね」
「否定してください」
「嫌」
セレナは楽しそうだった。
「だって年下だし」
「八歳差くらいでそんな……」
「八年って結構大きいわよ?」
「うっ……」
レインが悔しそうに黙る。
その反応が面白くて、セレナはまた笑った。
こんな時間が来るなんて。
本当に思っていなかった。
前線基地。
死と隣り合わせの場所。
なのに今、自分は笑っている。
しかも相手は。
守るつもりだった年下の少年。
「……でも」
セレナが静かに言う。
「前より、ちゃんと男の顔するようになった」
レインの呼吸が止まる。
「え?」
「最近、ときどきドキッとする」
「っ……!?」
レインが真っ赤になる。
セレナは面白そうに見ていた。
「反応分かりやすすぎ」
「からかわないでください……」
「本当のこと言っただけ」
レインは視線を逸らす。
心臓がうるさい。
セレナはそんな彼を見て、少しだけ目を細める。
大きくなった。
本当に。
まだ弱い。
まだ危なっかしい。
でも。
最初に会った頃より、ずっと前へ進んでいる。
そして何より。
もう、自分一人で立とうとしていない。
ちゃんと頼る。
ちゃんと寄りかかる。
それは弱さじゃない。
生きるために必要なことだ。
「レイン」
「……はい」
「もっと食べなさい」
「話変わりましたね」
「身体作らないとまた倒れる」
「それは正論です」
「あと背筋伸ばす」
「難易度高いです」
「頑張りなさい」
「はい……」
セレナが笑う。
レインも少し笑う。
窓の外では、今日も人が働いている。
水路を整備し。
鍋を煮込み。
壁を直し。
生きるために動き続ける。
その中で。
二人も少しずつ、変わっていく。
戦場の時間ではなく。
一緒に生きる時間の中で。




