87:初めて頼られた日
朝の光が、静かに治療室へ差し込んでいた。
夜通し燃え続けていた灯りは消え、代わりに柔らかな陽光が石壁を照らしている。
崩壊した前線基地。
それでも人は動いていた。
壊れた壁を直す者。
死者を弔う者。
鍋で大量の粥を炊く炊き出し班。
水路を整備する土魔法使い。
魔物素材を解体する職人。
戦いが終わっても、生活は止まらない。
この世界は、生きるために回り続ける。
治療室の窓からその様子を見ながら、セレナは静かに息を吐いた。
肩が重い。
正確には、肩に頭が乗っている。
レインだった。
眠ったまま、彼はセレナへ寄りかかっている。
細い身体。
熱は少し下がった。
呼吸も昨夜より安定している。
それだけで、セレナは安心してしまう。
「……本当に」
小さく呟く。
「警戒心ないわね」
返事はない。
当然だ。
完全に眠っている。
セレナは少しだけ身体を動かす。
レインの頭がずれないように、そっと支える。
その動作があまりに自然で、自分でも驚いた。
昔の自分なら考えられない。
誰かをこんな風に近くへ置くなんて。
絶対にしなかった。
失うのが嫌だから。
期待すると壊れるから。
誰かと生きることを、最初から諦めていた。
なのに今は。
この重みが、少し心地いい。
不意に、レインが小さく動く。
「……ん」
「起きた?」
ゆっくり瞼が開く。
ぼやけた目。
まだ寝ぼけている。
そして数秒後。
状況を理解した。
「……っ!?」
レインが飛び起きようとして、身体中の痛みに顔を歪めた。
「いっ……!」
「急に動くからよ」
セレナが呆れたように言う。
レインは顔を真っ赤にしていた。
「す、すみません……!」
「だから謝るの禁止」
「いやでも……肩……」
「別に減らないから平気」
セレナが平然と言う。
レインはさらに混乱した。
どうしてこの人は、こんなに距離が近いのに平然としているんだろう。
いや。
平然じゃない。
よく見ると、セレナも少しだけ耳が赤かった。
「……あの」
「何?」
「重く、なかったですか」
「だから軽いって言ったでしょ」
「男として傷つきます……」
「もっと食べなさい」
セレナは立ち上がる。
長い脚。
銀髪。
包帯だらけでも圧倒的に綺麗だった。
その背中を、レインはぼんやり見る。
強い人。
前を歩く人。
自分とは違う世界の人。
最初はそう思っていた。
今でも、強さは遠い。
でも。
少しだけ。
隣にいていいのかもしれないと思ってしまう。
「粥、持ってくる」
「……ありがとうございます」
「ちゃんと食べるのよ」
「はい」
セレナが部屋を出る。
扉が閉まる。
静かになった。
レインは天井を見る。
身体はまだ痛い。
動くたびに軋む。
魔力回路も不安定だ。
少しでも集中すると、体内で何かが暴れそうになる。
怖い。
本当に怖かった。
死ぬと思った。
壊れると思った。
でも。
あの時。
セレナがいた。
それだけで、踏み止まれた。
「……情けないな」
レインが小さく笑う。
一人では立てない。
誰かがいないと、すぐ崩れる。
でも。
初めてだった。
そんな自分を、嫌だと思わなかったのは。
少しして。
扉が開く。
セレナが戻ってきた。
木盆の上には湯気の立つ粥。
細かく刻まれた野菜。
薬草。
柔らかく煮込まれた肉。
疲労回復用に魔力草も少量混ざっている。
「食べれる?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
セレナは椅子へ座る。
そして自然に匙を持った。
レインが固まる。
「……え?」
「何」
「いや、その」
「動けないでしょ」
「自分で食べれます」
「腕震えてるわよ」
図星だった。
レインの手は、まだまともに力が入らない。
「ほら」
匙が口元へ来る。
レインは数秒固まったあと、観念した。
「……いただきます」
「はい」
温かかった。
優しい味。
塩気は控えめ。
でも疲れた身体に染み込む。
「美味しい……」
「厨房借りて私が作った」
レインがむせる。
「えっ!?」
「そんな驚く?」
「いや、だってS級冒険者が……」
「食事くらい作れるわよ」
セレナが少し笑う。
「昔、仲間によく作ってたから」
その言葉に、少しだけ影が落ちる。
失った仲間。
死んだ弟子。
置いてきた人たち。
レインは何も聞かなかった。
聞けなかった。
代わりに、小さく言う。
「……美味しいです」
「そう」
「なんか、安心します」
セレナの指が止まる。
胸の奥が静かに揺れた。
安心。
その言葉を、自分が誰かへ与えられるなんて思っていなかった。
自分は戦うことしかできないと思っていた。
剣を振るうことしか。
守ることしか。
でも。
こうして食事を作って。
誰かが安心した顔をする。
そんな時間も悪くないと思ってしまう。
「……もっと食べる?」
「はい」
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人の距離が変わっていく。
恋愛イベントなんかじゃない。
劇的な告白でもない。
ただ。
一緒に飯を食べる。
怪我を気にする。
眠るまでそばにいる。
それだけ。
でも。
それが、二人にとっては何より大きかった。
食事を終える頃。
レインはかなり疲れていた。
呼吸も荒い。
セレナは空になった器を置き、レインを見る。
「無理しすぎ」
「……はい」
「今回は本当に死ぬところだった」
「……」
「怖くなかった?」
レインは少し考える。
怖かった。
本当に。
でも。
「怖かったです」
「うん」
「でも……」
レインがセレナを見る。
「一人じゃ、なかったから」
セレナの心臓が大きく鳴る。
レインは続ける。
「セレナさんがいてくれたから」
真っ直ぐだった。
不器用で。
弱くて。
でも誤魔化しのない言葉。
セレナは目を逸らす。
「……ずるいわね、あなた」
「え?」
「そういうこと、簡単に言うから」
レインは意味が分からず困惑する。
セレナは小さく笑った。
そして。
少し迷ってから。
ゆっくり口を開く。
「……私も」
「?」
「怖かった」
レインが目を見開く。
「あなたが死ぬかもしれないって思ったら」
セレナは窓の外を見る。
強い女。
最強の冒険者。
ずっと前線に立ってきた人。
そんな彼女が今、少しだけ弱かった。
「だから」
セレナが静かに言う。
「……ちゃんと頼りなさい」
レインが息を呑む。
「一人で抱え込まないで」
「……」
「怖いなら怖いって言いなさい」
「……はい」
「無理なら無理って言いなさい」
「はい」
「あなた、我慢しすぎるから」
レインはしばらく黙っていた。
そして。
本当に小さな声で言う。
「……じゃあ」
「何?」
「少しだけ、ここにいてください」
沈黙。
セレナの目が揺れる。
それは。
彼が初めて、自分から誰かを頼った瞬間だった。
「……ええ」
セレナは静かに答える。
「今日は、いてあげる」
その言葉に。
レインは安心したように目を閉じた。
そして数秒後。
また少しだけ、セレナの肩へ寄りかかる。
今度は無意識じゃない。
自分からだった。
セレナは何も言わない。
ただ静かに、その重みを受け止める。
窓の外では、人々が前線を立て直している。
壊れた場所を直しながら。
それでも生きていくために。
そしてこの部屋でも。
壊れかけた二人が、少しずつ寄り添い始めていた。




