86:寄りかかる肩
雨が止んだのは、夜明け前だった。
前線基地の空気には、まだ血と薬草の匂いが残っている。
崩れた壁。
運び込まれる負傷者。
徹夜で動き続ける治癒師たち。
災害級魔物討伐は成功した。
だが、勝利と呼ぶには犠牲が大きすぎた。
基地全体が疲弊していた。
その中でも、一番空気が張り詰めている部屋がある。
臨時治療室。
そこに、レインは寝かされていた。
白い包帯。
青白い顔。
不規則な呼吸。
高熱。
魔力暴走。
身体の内部は、まだ壊れ続けている。
「……まだ下がらないのか」
セレナが低く呟く。
椅子に座ったまま、一睡もしていない目だった。
治癒師の老人が首を振る。
「普通なら死んでいます」
「そう」
「むしろ生きているのが異常ですな」
老人はレインを見る。
「無限魔力……。理屈そのものが壊れておる」
セレナは黙る。
知っていた。
レインは危うい。
最初からずっと。
小さな器に海を流し込んでいるようなものだ。
いつか壊れる。
誰でも分かる。
それでも彼は前へ出た。
怖がりながら。
吐きながら。
震えながら。
最後だけは逃げずに。
「……馬鹿な子」
セレナが静かに言う。
その声は怒っているようで。
泣きそうでもあった。
老人が部屋を出る。
静寂。
雨音は消えた。
聞こえるのはレインの浅い呼吸だけ。
セレナは椅子に深く座り直す。
全身が痛かった。
肩の傷。
肋骨。
脚。
身体強化を酷使した反動もある。
普通ならベッドから動けない。
でも。
ここを離れる気になれなかった。
レインの顔を見る。
眠っている。
いや、気絶に近い。
熱に浮かされ、時々苦しそうに眉を寄せる。
セレナはそっと濡れ布を額へ置き直した。
「……本当に無茶ばかり」
返事はない。
当たり前だ。
それでも彼女は喋り続ける。
「最初に会った頃は、もっと酷かったわね」
少し笑う。
「剣もまともに握れなくて、人の目も見れなくて」
「依頼帰りなんて毎回吐いてた」
「新人に絡まれても、反論もできなくて」
セレナの目が柔らかくなる。
「なのに」
「最後だけは逃げないのよね、あなた」
その時。
レインの指がわずかに動いた。
「……ん……」
「レイン?」
瞼がゆっくり開く。
ぼやけた視界。
焦点が合うまで時間がかかった。
そして。
最初に見えたのはセレナだった。
銀髪。
疲れた顔。
眠っていない目。
「……セレナ、さん」
「起きたの?」
セレナが安堵したように息を吐く。
その小さな変化を、レインは初めて見た。
この人も、こんな顔をするんだ。
「水、飲む?」
「……はい」
セレナが身体を起こしてやる。
レインは顔をしかめた。
激痛。
全身が軋む。
「無理するな」
「……情けない」
「生きてるだけ上等よ」
セレナはコップを口元へ寄せる。
レインが少しずつ飲む。
震える指。
弱い喉。
飲み終えると、セレナは自然に口元を拭いた。
まるで昔からそうしていたみたいに。
「……すみません」
「何が?」
「迷惑、かけて」
「本当にそう思うなら、次から死にかけないことね」
「努力します」
「努力でどうにかなるなら苦労しない」
レインが小さく笑う。
セレナはその顔を見て、胸が痛む。
まだ笑う。
こんな状態なのに。
「……怖かったです」
レインがぽつりと言う。
「うん」
「もう駄目かと思いました」
「うん」
「身体の中、壊れてく感じがして」
レインは視線を落とす。
「それでも……止まれなかった」
セレナは黙って聞いていた。
「セレナさんが、前にいたから」
空気が止まる。
「……僕、一人だったら逃げてました」
「……」
「でも、セレナさんが傷ついてるの見たら」
レインが苦しそうに息を吐く。
「動かなきゃって、思ったんです」
セレナは目を閉じる。
危険だった。
その言葉は。
胸の奥へ入ってくる。
ずっと閉じていた場所へ。
「……本当に」
セレナが低く呟く。
「人を狂わせる才能あるわね、あなた」
「え?」
「なんでもない」
彼女は立ち上がる。
窓を開ける。
夜明けの風が入ってきた。
冷たい。
でも心地いい。
遠くで兵士たちが動き始めている。
壊れた前線を立て直すために。
誰も止まれない。
この世界は厳しい。
弱い者から死ぬ。
優しい者から壊れる。
だからセレナは、ずっと一人で立ってきた。
誰にも寄りかからず。
誰にも期待せず。
そうすれば失わないから。
でも。
振り返る。
ベッドの上の少年。
まだ弱い。
まだ頼りない。
なのに。
なぜか隣にいてほしいと思ってしまう。
「……セレナさん?」
「何?」
「ずっと、いました?」
「ええ」
「寝てない?」
「寝てない」
「なんで……」
セレナは少し考える。
答えは分かっている。
でも口にするには、まだ怖い。
「心配だったから」
それだけ言った。
レインの顔が赤くなる。
「……すみません」
「そこで謝るのやめなさい」
「癖です」
「知ってる」
セレナは椅子へ戻る。
今度はベッドの近く。
かなり近い。
レインが少し緊張する。
「……セレナさん」
「何?」
「肩、痛くないですか」
「痛いわよ」
「じゃあ休んでください」
「嫌」
「なんで」
「今はここにいる」
即答だった。
レインが黙る。
心臓がうるさい。
セレナはそんな彼を見て、小さく笑った。
「あなた、本当に分かりやすいわね」
「……からかわないでください」
「可愛いから無理」
レインが完全に黙る。
耳まで赤い。
セレナは少しだけ目を細める。
年上の余裕。
でも。
その内側は、自分でも驚くほど揺れていた。
こんな時間が来るなんて思っていなかった。
誰かの隣で。
静かに座って。
ただ、生きていてくれて安心するなんて。
知らなかった。
そんな感情。
レインが眠そうに目を細める。
限界だった。
身体が持たない。
「寝なさい」
「……はい」
「今度はちゃんと起きなさいよ」
「……はい」
レインがゆっくり目を閉じる。
数秒後。
小さく身体が傾いた。
そして。
そのまま、セレナの肩へ寄りかかる。
セレナが固まる。
銀色の瞳が揺れる。
レインは完全に寝ていた。
無防備だった。
安心しきった顔。
セレナはしばらく動けなかった。
肩へ伝わる重み。
温度。
呼吸。
生きている。
ちゃんと。
ここにいる。
「……ずるい」
セレナが小さく呟く。
こんな顔をされたら。
もう離れられない。
窓から朝日が差し込む。
壊れた前線。
疲弊した基地。
終わらない戦い。
それでも。
この瞬間だけは、静かだった。
セレナは動かない。
少年の重みを受け止めたまま。
そっと目を閉じる。
初めて。
本当に少しだけ。
誰かに寄りかかることを許した。




