83:背負う
雨の夜だった。
王都リグヴァルトの石畳は黒く濡れ、街灯の魔導灯だけがぼんやりと揺れている。
街全体に緊張が走っていた。
ダンジョン第五層前線崩壊。
その報せは、既に都市機能そのものへ影響を与え始めている。
市場では素材価格が跳ね上がり、肉の流通量が減った。
冒険者たちは依頼を選び始め、商人は護衛を増やし、酒場では「撤退すべきか」という話まで出始めている。
前線が崩れる。
それは単なる戦闘被害ではない。
都市の血流が止まるということだった。
ギルド前。
重装備の冒険者たちが集められている。
A級。
B級上位。
王国騎士。
治癒師。
誰も余裕がない。
「確認された個体は三体!」
「通常種と違う! 魔力を吸う!」
「魔法主体は前へ出るな!」
怒号が飛ぶ。
レインはその空気に飲まれそうになっていた。
怖い。
足が震える。
胃が痛い。
吐き気もする。
でも逃げなかった。
隣にはセレナがいる。
包帯だらけのまま。
折れた大剣の代わりに、新しい大剣を背負っていた。
漆黒の刃。
重すぎる武器。
普通の人間なら持ち上がらない。
「本当に行くんですね」
レインが小さく言う。
「行く」
「傷、まだ」
「動ける」
セレナは短く返す。
その横顔は静かだった。
覚悟を決めた人間の顔。
レインはその顔を見るたびに思う。
綺麗だ。
強い。
遠い。
そして。
壊れそうだ。
「レイン」
「はい」
「今日は私から離れない」
「……はい」
「無理して前へ出ない」
「はい」
「死にそうになったら逃げる」
レインは少し黙った。
そして。
「努力します」
セレナが呆れたように息を吐く。
「本当に面倒」
でも。
その声は少し柔らかかった。
前線へ向かう馬車の中。
空気は重い。
誰もあまり喋らない。
車輪の音。
雨音。
鎧の擦れる音。
それだけが響く。
レインは窓の外を見ていた。
王都外縁。
農地。
水路。
倉庫。
物流街。
食堂。
全部が繋がっている。
この都市はダンジョンで生きている。
だから前線が崩れると、人が死ぬ。
戦えない人間まで巻き込まれる。
レインは唇を噛んだ。
怖い。
でも。
守りたいと思った。
セレナだけじゃない。
この街も。
誰かの飯も。
誰かの日常も。
守りたい。
その感情が、自分の中にあることに驚いていた。
「顔」
セレナが言う。
「え」
「前より少しだけマシ」
「……何がですか」
「逃げそうな顔」
レインは苦笑した。
「まだ怖いですよ」
「知ってる」
「今も帰りたいです」
「知ってる」
「吐きそうです」
「知ってる」
セレナは静かに続ける。
「でも来た」
レインは返せない。
セレナは窓の外を見る。
「それで十分」
前線基地。
そこは地獄だった。
負傷者。
血。
怒号。
崩れた防壁。
運ばれる死体。
焦げた匂い。
雨と血が混ざった泥。
レインは顔色を失う。
新人冒険者が泣いていた。
「無理だ……」
「勝てるわけない……」
兵士が叫ぶ。
「第五通路閉鎖しろ!」
「間に合いません!!」
治癒師が怒鳴る。
「次を運んで!」
混乱。
崩壊寸前。
セレナはそれを見て、小さく息を吐いた。
「完全に士気が死んでる」
レインの鑑定が周囲を見る。
疲労。
恐怖。
魔力不足。
怪我。
統率低下。
前線崩壊寸前。
数字のように見える。
嫌になるほど。
「セレナさん」
「分かってる」
セレナは大剣を肩へ担ぐ。
「レイン」
「はい」
「今日は一つ覚えなさい」
「……何を」
セレナは前を見る。
「強い奴っていうのは」
「自分が戦うだけじゃない」
雨が降る。
彼女の銀髪を濡らす。
「背負うの」
「……」
「弱い奴も」
「泣く奴も」
「逃げたい奴も」
「全部」
レインはその背中を見る。
広い背中だった。
傷だらけで。
強くて。
孤独だった。
「私は昔、それが嫌だった」
セレナが小さく言う。
「なんで自分ばっかりって思ってた」
「……」
「でも」
「誰かが立たないと崩れる」
レインは胸が痛くなる。
セレナは今まで。
ずっと背負ってきたんだ。
仲間。
前線。
期待。
命。
全部。
一人で。
「だから」
セレナが振り返る。
「あなたがもし強くなるなら」
「力だけじゃ駄目」
「背負えるようになりなさい」
その言葉は重かった。
レインは何も返せない。
でも。
胸の奥に残った。
その時。
警鐘が鳴った。
ゴォン!!
重い鐘の音。
前線兵が叫ぶ。
「来るぞ!!」
地面が震える。
次の瞬間。
巨大な咆哮。
黒い巨体が通路を破壊しながら現れた。
三つ目。
四腕。
黒い外殻。
全身から闇のような魔力を漏らしている。
周囲の魔力が吸われていく。
レインの背筋が凍る。
「これ……」
鑑定。
危険。
災害級。
魔力捕食型。
対魔法特化。
瞬間。
前衛が吹き飛んだ。
「ぎゃあああ!!」
「防げ!!」
「無理だ!!」
絶望が広がる。
その中で。
セレナだけが前へ出た。
雨の中。
大剣を引きずりながら。
レインが叫ぶ。
「セレナさん!!」
セレナは笑った。
強い女の笑みだった。
「背負うっていうのはね」
火属性魔力が爆発する。
地面が赤く染まる。
周囲の空気が燃える。
「怖くても前へ出ること」
そして。
セレナが踏み込んだ。
轟音。
巨大な火柱。
黒い魔物が吠える。
戦場が揺れる。
レインは息を呑む。
強い。
圧倒的だった。
それでも。
分かった。
この人は無敵じゃない。
痛みながら。
壊れながら。
それでも立っている。
だから強い。
レインは剣を握る。
震えている。
怖い。
逃げたい。
でも。
その背中を一人にしたくなかった。
レインは一歩前へ出た。
雨の中を。




