81:セレナ重傷
朝だった。
王都リグヴァルトの空は薄曇りで、陽の光は弱い。
市場には野菜を運ぶ荷車が並び、焼き立ての黒パンの匂いが漂っている。
人々は生きている。
当たり前のように。
誰かが死ぬことなど、自分とは関係ないという顔で。
レインは宿屋の窓からその景色を見ていた。
昨夜から、ほとんど眠れていない。
身体は重い。
指先が痺れる。
視界の端が時々暗くなる。
奪いすぎた力。
増え続ける魔力。
身体の内側が軋んでいた。
「顔色、最悪ね」
後ろからセレナの声。
レインが振り返る。
長い銀髪。
いつもの黒い軽鎧。
巨大な大剣。
強い女。
それなのに。
今日は少しだけ疲れて見えた。
「セレナさんこそ」
「私は平気」
「嘘ですね」
「……鋭くなった」
セレナが小さく笑う。
レインは目を逸らした。
最近、分かる。
無理をしている時の呼吸。
歩き方。
筋肉の硬さ。
強い人ほど隠す。
だから余計に分かる。
「今日の依頼、本当に行くんですか」
「行く」
「危険度、高いんでしょう」
「高い」
「なら」
「レイン」
セレナが近づく。
「私はS級」
「……」
「これが仕事」
レインは黙る。
分かっている。
でも。
嫌だった。
嫌な予感がする。
理由はない。
ただ胸がざわつく。
「……僕も行きます」
「駄目」
「でも」
「今回は無理」
セレナは真っ直ぐ言う。
「あなた、今かなり危ない」
「……」
「昨日、吐いたでしょ」
レインは返せない。
確かに吐いた。
血も混じっていた。
「一回休め」
「でも」
「死ぬよりマシ」
その言葉が重かった。
セレナは死を軽く扱わない。
本当に死ぬ場所を知っているから。
「……分かりました」
レインは俯いた。
情けない。
守られてばかりだ。
強くなった気でいた。
少し戦えた。
勝てた。
でも。
結局まだ。
置いていかれる側だ。
セレナはそんなレインを見て、小さく息を吐いた。
「そんな顔しない」
「……」
「ちゃんと戻る」
その言葉が。
妙に怖かった。
セレナは頭を軽く撫でる。
「昼には帰る」
「子供じゃないんですけど」
「知ってる」
でも。
その手は優しかった。
温かかった。
レインは何も言えなかった。
昼過ぎ。
雨が降り始めた。
最初は小雨。
でも次第に強くなる。
宿屋の屋根を叩く音が大きい。
レインは一人で部屋にいた。
本を読もうとしても頭に入らない。
剣を磨こうとしても手が止まる。
落ち着かない。
胸騒ぎが消えない。
そして。
夕方。
宿屋の扉が乱暴に開いた。
「誰か! 治癒師を呼べ!!」
怒鳴り声。
濡れた冒険者たち。
血。
泥。
壊れた鎧。
レインは立ち上がった。
心臓が止まりそうになる。
「セレナがやられた!!」
その瞬間。
頭が真っ白になった。
「……え」
身体が動く。
考える前だった。
階段を駆け下りる。
人を押しのける。
そして。
見た。
セレナ。
血だらけだった。
腹部が裂けている。
右肩も潰れている。
呼吸が浅い。
顔色が白い。
大剣は折れていた。
「……っ」
レインの喉が詰まる。
こんなの。
初めて見た。
最強の人が。
こんな風に倒れている。
「避難が遅れた」
「下層で新種が出たんだ」
「セレナが壁にならなきゃ全滅だった」
周囲の声が遠い。
レインは膝をつく。
「セレナさん」
反応がない。
血が多い。
多すぎる。
手が震える。
怖い。
嫌だ。
「治癒師は!?」
「今向かってる!」
「間に合うのかよこれ!」
レインはセレナの傷を見る。
鑑定。
内臓損傷。
出血。
魔力回路破損。
危険。
危険。
危険。
「……駄目だ」
口から零れる。
間に合わない。
このままじゃ。
死ぬ。
レインの呼吸が乱れる。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
また失うのか。
何もできないまま。
「レイン!」
誰かが叫ぶ。
でも聞こえない。
視界が狭まる。
胸の奥が熱い。
魔力が暴れる。
「……助ける」
レインが呟く。
「え?」
「助ける……!」
光魔法。
治癒。
未熟。
普通なら無理。
でも。
レインには無限魔力がある。
問題は制御。
暴走。
身体。
壊れる。
でも。
そんなこと考えていられなかった。
「レイン!!」
誰かが止めようとする。
レインはセレナへ手を当てた。
膨大な魔力が流れ込む。
瞬間。
部屋全体が震えた。
ランプが割れる。
窓ガラスが軋む。
白い光。
圧倒的な魔力。
「ぐっ……!」
レインの口から血。
それでも止めない。
セレナの傷が少しずつ閉じる。
でも。
遅い。
足りない。
「もっと……!」
さらに魔力を流す。
身体が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
血管が焼ける。
視界が赤い。
でも。
止められない。
死なせたくない。
「お願いだから……!」
レインの声が震える。
「死なないで……!」
その言葉に。
周囲が静まった。
誰も動けない。
新人冒険者。
弱くて。
頼りなくて。
いつも震えている少年。
その少年が。
今。
命を削っている。
ただ一人を救うために。
セレナの指が微かに動く。
「……れ、い……ん」
小さい声。
レインの目が見開かれる。
「セレナさん!」
「やめ……なさい……」
「嫌です!」
「……死ぬ」
「死んでもいい!」
叫んでから。
レイン自身が震えた。
本音だった。
この人が死ぬくらいなら。
自分なんてどうでもいい。
セレナの瞳が少し揺れる。
「……馬鹿」
レインは泣きそうになる。
その時。
光が収束した。
傷が止まる。
完全じゃない。
でも。
命は繋がった。
レインの身体が崩れる。
「っ……!」
床へ倒れた。
血を吐く。
視界が暗い。
寒い。
「レイン!!」
誰かが叫ぶ。
セレナが無理やり身体を起こそうとする。
「動くな!」
「離して……!」
セレナの声が掠れている。
それでも。
彼女の視線はレインだけを見ていた。
レインは薄れる意識の中で、その顔を見る。
生きている。
ちゃんと。
呼吸している。
良かった。
本当に。
良かった。
レインは小さく笑った。
「……戻って、きた」
セレナの目が揺れる。
その瞬間。
胸の奥が痛んだ。
怖かった。
本当に怖かった。
この少年が。
自分のために壊れることが。
何より怖かった。




