80:限界の先
夜だった。
雨は止んでいた。
宿屋の窓から見える王都は、濡れた石畳に灯りを映している。
酒場の笑い声。
遠くの鐘。
酔った冒険者の怒鳴り声。
生きている街の音だった。
レインはベッドの上で目を閉じていた。
眠れない。
身体は重い。
熱はまだ下がりきっていない。
でも。
それ以上に、頭の中が静かじゃなかった。
奪った力。
混ざる感情。
壊れていく感覚。
怖い。
本当に怖い。
自分が自分じゃなくなる気がする。
「……っ」
胸を押さえる。
脈が速い。
魔力が暴れている。
身体の奥で何かが蠢いていた。
セレナは隣の椅子で本を読んでいた。
今日は珍しく酒を飲んでいない。
ランプの灯りが銀髪を照らしている。
綺麗だった。
静かな横顔。
でも。
時々、ページをめくる手が止まる。
レインを見ている。
監視しているわけじゃない。
気にしている。
その距離感が、妙に優しかった。
「……寝てください」
レインが小さく言う。
「ん?」
「明日も依頼あるんでしょう」
「ある」
「なら」
「レイン」
セレナは本を閉じた。
「私、強いの」
「……知ってます」
「三日寝なくても戦える」
「人間やめてますね」
「半分くらいは」
少し笑う。
レインも少しだけ口元が緩んだ。
でも。
長くは続かない。
胸が痛む。
「……っ」
息が乱れる。
セレナがすぐ立ち上がった。
「また?」
「だい、じょうぶ……」
「大丈夫じゃない」
額へ触れる。
熱い。
魔力が暴れている。
空気が震えていた。
ランプの火が揺れる。
「レイン」
「……はい」
「今、どんな感じ」
レインは息を整えながら答える。
「身体の中が……いっぱいです」
「いっぱい?」
「知らない魔力が、混ざってる感じで」
喉が震える。
「頭の中、変になる」
「怒りとか」
「殺したいとか」
「食べたいとか」
「そういうの、一瞬だけ浮かぶ」
セレナは黙る。
レインは続ける。
「怖いです」
「……」
「僕じゃないものが増えていく」
言葉にすると現実になる。
本当に壊れている気がした。
セレナは少し考え、それからベッドへ腰掛けた。
「レイン」
「はい」
「鑑定、使って」
「……え?」
「自分に」
レインが目を見開く。
「そんなの」
「怖い?」
「……はい」
正直だった。
自分の中を見たくない。
何があるか分からない。
化け物になっていたら。
戻れなかったら。
セレナは静かに言った。
「怖くても見る」
「逃げると、もっと壊れる」
レインは黙る。
怖い。
でも。
この人は嘘を言わない。
「……やります」
小さく息を吸う。
目を閉じる。
鑑定。
魔力を内側へ向ける。
普段は外を見る力。
他者を見る力。
それを、自分へ。
瞬間。
「っ……!」
視界が白く染まった。
膨大な情報。
魔力回路。
身体構造。
筋肉。
神経。
そして。
黒い染み。
無数。
身体中へ広がっていた。
「な、に……これ」
レインの声が震える。
それは魔力だった。
異質な魔力。
自分じゃないもの。
獣。
虫。
蛇。
狼。
今まで奪った魔物たちの残滓。
それが身体へ絡みついている。
しかも。
少しずつ。
侵食していた。
「っ、あ……!」
吐き気。
レインが口を押さえる。
セレナが背中を支えた。
「落ち着け」
「これ……駄目だ……!」
「レイン」
「僕、壊れてる……!」
呼吸が乱れる。
怖い。
本当に化け物だ。
こんなの。
人間じゃない。
「見ろ」
セレナが低く言った。
「最後まで」
「……!」
「逃げるな」
レインは震えながら、もう一度鑑定を続ける。
そして。
気づいた。
黒い染みの中心。
そこだけは違う。
自分の魔力。
小さい。
弱い。
でも。
消えていない。
黒に飲まれながらも。
まだ残っている。
「……あ」
「何が見えた」
レインは息を切らしながら呟く。
「まだ……」
「僕がいる」
セレナは小さく息を吐いた。
「なら、終わってない」
レインは涙が出そうになる。
怖かった。
本当に。
でも。
まだ消えていない。
自分が。
「どうすれば……」
「制御する」
「できますか」
「やるしかない」
セレナの答えは簡単だった。
「奪う量を減らす」
「流れを固定する」
「身体を鍛える」
「魔力回路を慣らす」
「時間かかる」
レインは呆然とする。
「そんな……」
「簡単なわけないでしょ」
セレナは笑う。
「でも、やる」
レインは唇を噛む。
「もし、失敗したら」
「その時は私が止める」
「……」
「だから今は前向け」
セレナの声は静かだった。
でも強い。
この人は。
本当に強い。
力だけじゃない。
壊れそうな誰かを見捨てない。
それが強い。
「……なんで」
レインが小さく言う。
「そこまでしてくれるんですか」
セレナは少し黙った。
それから。
「似てるから」
「……え?」
「昔の弟子に」
レインの胸が痛む。
「怖がりで」
「無茶して」
「不器用で」
「でも最後だけ逃げない」
セレナは少し笑う。
「見捨てられない」
レインは俯いた。
「……僕、代わりですか」
言ってから後悔した。
最低だ。
こんな時に。
でも。
聞いてしまった。
セレナは少し驚いた顔をした。
それから。
「違う」
はっきり言った。
「あなたはレイン」
「別人よ」
「……」
「重ねるほど馬鹿じゃない」
レインは少しだけ安心する。
でも。
同時に胸が熱くなる。
嬉しかった。
そんな風に言われたことがない。
「……ありがとうございます」
「うん」
静かな空気。
窓の外では夜風が揺れている。
セレナはふと立ち上がった。
「腹減った」
「……急ですね」
「考え事すると甘い物食べたくなる」
「またですか」
「悪い?」
「いえ」
レインは少し笑った。
「何食べます?」
「あなたの作るやつ」
「雑ですね」
「だって美味しいし」
レインはゆっくり立ち上がる。
まだ身体は重い。
痛い。
怖い。
でも。
さっきより少しだけ、呼吸が楽だった。
限界は近い。
壊れ始めてもいる。
それでも。
まだ終わっていない。
自分は残っている。
なら。
進める。
セレナはそんなレインを見て、小さく目を細めた。
弱い。
脆い。
今にも壊れそう。
でも。
この少年は、限界の先でも立とうとする。
それが痛々しくて。
眩しかった。




