75:小さな誇り
朝の空気は少し冷えていた。
王都の秋は早い。
窓を開ければ、白い息がわずかに見える。
宿屋の裏路地では、パン屋が窯へ火を入れていた。香ばしい匂いが風に混ざり、眠りきらない街をゆっくり起こしていく。
レインは台所に立っていた。
まだ外は薄暗い。
宿の客も起きていない時間。
鍋から湯気が上がる。
小さく刻んだ野菜。
塩漬け肉。
昨日市場で安く買った根菜。
弱火でじっくり煮込む。
包丁を握る手は、以前より少しだけ安定していた。
火加減を見る。
水を足す。
味を確認する。
そういう細かな作業が、レインは嫌いじゃなかった。
静かだからだ。
誰も怒鳴らない。
失敗しても、すぐ殴られたりしない。
鍋は黙って応えてくれる。
だから落ち着く。
「朝から働き者ねぇ」
女将が欠伸をしながら降りてくる。
「あ、おはようございます」
「おはよう。今日はシチュー?」
「はい」
「セレナちゃん用?」
レインは手を止める。
「……みんな用です」
「ふふ」
完全に信じていない笑い方だった。
レインは耳が赤くなる。
女将は面白そうに見ながら、水を飲む。
「最近、あんた変わったね」
「え」
「前はずっと下向いてた」
レインは少し黙った。
「……今も下向いてます」
「前よりマシ」
女将は笑う。
「ちゃんと人の顔見るようになったよ」
レインは返事に困る。
そんなつもりはない。
でも。
少しだけ心当たりがあった。
セレナといる時。
前より言葉を出せる。
前より逃げなくなった。
怖いのは変わらない。
人混みも苦手。
視線も苦手。
怒鳴り声なんて今でも身体が固まる。
でも。
それでも。
少しずつ立てるようになっていた。
鍋が煮える。
優しい匂いが広がる。
その時。
階段を降りる音がした。
セレナだった。
黒いシャツに細身のズボン。
寝起きなのに妙に整っている。
長い銀髪は少しだけ乱れていて、それが逆に色気を強くしていた。
「……いい匂い」
低い声。
レインの肩が少し揺れる。
「お、おはようございます」
「おはよう」
セレナはそのまま椅子へ座る。
眠そうに頬杖をつく姿すら綺麗だった。
「また無理して早起きした?」
「してないです」
「嘘」
「……少しだけ」
セレナは小さく息を吐く。
「寝不足は判断鈍る」
「すみません」
「怒ってない」
レインは皿を用意する。
シチューを注ぐ。
焼いた黒パンを添える。
セレナは黙って見ていた。
手際がいい。
前より自然だ。
最初の頃は包丁すら危なかったのに。
「できました」
セレナはスプーンを取る。
一口。
飲み込む。
数秒。
「美味しい」
レインの胸が少し軽くなる。
「ほんと?」
「ほんと」
セレナはもう一口食べる。
「前より味まとまってる」
「……練習しました」
「知ってる」
知っている。
その言葉が妙に嬉しい。
セレナは見ている。
小さな努力。
誰も気づかないような変化。
それを、この人だけは見落とさない。
だから。
レインは少しだけ救われる。
朝食を食べ終えた後。
セレナは机へ肘をつきながらレインを見る。
「今日どうするの」
「依頼、受けます」
「単独?」
「……はい」
少しの沈黙。
セレナは真っ直ぐレインを見る。
「怖い?」
「怖いです」
「逃げたい?」
「少し」
「でも行く?」
レインは頷いた。
「行きます」
セレナは少しだけ笑う。
「なら大丈夫」
その言葉には根拠がない。
強さの保証もない。
でも。
妙に安心する。
ギルドへ向かう道。
王都は今日も賑やかだった。
露店。
商人。
馬車。
鍛冶屋の音。
子供の笑い声。
その中を歩きながら、レインは少しだけ胸を張っていた。
ほんの少しだけ。
本当に少し。
でも。
前より背中が丸くない。
昨日、初めて勝った。
それが身体のどこかに残っている。
ギルドへ入る。
視線が集まる。
まだ怖い。
でも耐えられる。
「あ」
受付嬢ミリアが気づく。
「レイン君、おはよう」
「お、おはようございます」
「今日は依頼?」
「はい」
掲示板を見る。
薬草採取。
荷運び。
小型魔物討伐。
その中で一枚の依頼が目に入った。
《西水路・スライム群除去》
低級依頼。
でも件数が多い。
放置すると水路が詰まる。
王都の生活に関わる仕事だった。
「これ、受けます」
ミリアが少し驚く。
「数多いですよ?」
「……やります」
「危険度は低いですけど、地味に大変です」
「大丈夫です」
ミリアは少し笑った。
「分かりました」
依頼証を渡す。
「気をつけて」
「はい」
ギルドを出た後。
レインは西区へ向かった。
王都の裏側。
観光客が来ない場所。
石造りの水路。
汚れた水。
生活臭。
でも。
ここが王都を支えている。
料理人。
洗濯屋。
鍛冶屋。
全部、水を使う。
水路が死ねば街も死ぬ。
レインはしゃがみ込む。
鑑定。
魔力の流れを見る。
詰まり。
汚染。
スライムの巣。
少しずつ見えてくる。
「……ここか」
以前より視える。
精度が上がっている。
レインは息を吐く。
剣を抜く。
水路の奥でスライムが蠢いた。
青黒い粘液。
低級魔物。
普通なら新人数人でやる仕事。
でも。
レインは一人だった。
怖い。
今でも怖い。
でも。
逃げない。
「……行きます」
小さく呟く。
スライムが飛びかかる。
レインは反射的に身体を動かした。
剣を振る。
斬る。
粘液が飛ぶ。
次。
また次。
数が多い。
気を抜けば囲まれる。
でも。
以前より見える。
魔力の流れ。
動き。
隙。
そして。
自分の呼吸。
レインは水魔法を使う。
小さな水刃。
まだ不安定。
でも発動した。
スライムの核を裂く。
「……っ」
成功。
胸が熱くなる。
まだ弱い。
でも。
ちゃんと戦えている。
時間はかかった。
服も汚れた。
泥だらけ。
汗だく。
何度も転んだ。
何度も怖くなった。
それでも。
全部終わらせた。
水路は流れ始める。
詰まっていた水が音を立てて進んでいく。
その時だった。
「兄ちゃん」
振り返る。
洗濯屋の老婆がいた。
「水、流れたよ」
「……はい」
「助かった」
笑っていた。
「最近ひどかったんだ」
レインは言葉に詰まる。
「ありがとねぇ」
ただの一言。
でも。
胸へ深く落ちた。
感謝された。
役に立った。
その事実が、じわじわ身体へ広がる。
帰り道。
夕日が王都を赤く染めていた。
レインは空を見上げる。
少し疲れている。
身体も痛い。
でも。
今日は少し違った。
誰かを助けた。
ちゃんと役に立てた。
それは小さい。
本当に小さい。
S級みたいな英雄じゃない。
災害級討伐でもない。
でも。
レインにとっては大きかった。
宿へ戻る。
扉を開ける。
セレナがいた。
本を読んでいた視線が上がる。
「おかえり」
「……ただいまです」
その瞬間。
レインは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも。
以前より自然な笑顔だった。
セレナはそれを見て、小さく目を細める。
「何かあった?」
レインは少し迷った。
でも。
今は話せる気がした。
「今日」
小さく息を吸う。
「ちゃんと、役に立てました」
セレナは黙って聞く。
レインは続ける。
「すごいことじゃないです」
「小さい依頼で」
「地味で」
「泥だらけで」
「全然強くないですけど」
それでも。
「少しだけ」
レインは胸を押さえる。
「嬉しかったです」
セレナは静かに笑った。
「そう」
「はい」
「なら、それは立派な誇りよ」
夕日が部屋を染める。
暖かな赤。
その中で。
レインは初めて、自分の胸に小さな灯りが生まれるのを感じていた。




