74:立ち上がる
朝だった。
窓から差し込む光は柔らかく、昨夜までの冷たい空気を少しずつ押し退けていく。
宿屋の一室。
レインはゆっくり目を開けた。
「……っ」
腕が痛む。
昨日の傷。
包帯の感触。
身体中に残る疲労。
それでも。
以前のような最悪の目覚めではなかった。
生きている。
ちゃんと戻ってきた。
その実感が、静かに胸へ残っている。
ベッドから起き上がる。
窓を開ける。
朝の風。
王都の匂い。
パンを焼く香り。
市場の声。
遠くで鐘が鳴っていた。
レインは少しだけ目を細める。
昨日、一人で戦った。
一人で勝った。
その事実はまだ信じきれない。
夢みたいだった。
でも。
腕の痛みが現実だと教えてくれる。
部屋を出る。
階段を下りる。
厨房から匂いがした。
肉を焼く音。
スープの湯気。
そして。
「遅い」
セレナの声。
レインの胸が少し跳ねる。
「お、おはようございます」
「おはよう」
セレナはすでに起きていた。
黒いシャツ姿。
銀髪を軽く後ろで結んでいる。
長い脚を組み、机に肘をついていた。
朝だというのに妙に色気がある。
レインは視線を逸らした。
まだ慣れない。
「顔赤い」
「……赤くないです」
「赤い」
女将が笑う。
「ほんと分かりやすい子ねぇ」
レインは完全に居心地が悪そうだった。
セレナは少し笑う。
以前より笑う回数が増えている。
本人は気づいていない。
「腕」
セレナが指を向ける。
「見せて」
「はい」
レインは包帯を外す。
傷は塞がりかけていた。
セレナは軽く触れる。
冷たい指先。
「無茶しなかった?」
「……しました」
「正直」
「嘘つけないので」
「偉い」
その言葉だけでまた耳が熱くなる。
セレナは小さく息を吐いた。
「でも、ちゃんと生き残った」
「……はい」
「そこは覚えなさい」
レインは静かに頷く。
朝食は簡素だった。
黒パン。
卵。
薄いスープ。
でも。
二人で食べる時間は、妙に落ち着く。
レインはパンをちぎりながら、小さく口を開いた。
「今日、依頼報告してきます」
「一人で?」
「……はい」
セレナは少しだけ考える。
「怖い?」
レインは少し黙る。
「怖いです」
「そう」
「でも」
レインはスープを見つめた。
「行きます」
セレナは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ目を細める。
その返事が嬉しかった。
ギルドは朝から騒がしかった。
冒険者たちの怒鳴り声。
酒の匂い。
紙をめくる音。
武器がぶつかる音。
いつもの空気。
レインは扉の前で一瞬止まる。
怖い。
まだ怖い。
人混みは苦手だ。
視線も苦手だ。
でも。
「……っ」
レインは深呼吸して中へ入った。
受付嬢ミリアがすぐ気づく。
「あっ、レイン君!」
明るい声。
レインは肩を跳ねさせながら近づいた。
「依頼報告、です」
「おかえりなさい!」
その言葉に少し驚く。
ミリアは笑顔だった。
「どうでした?」
「えっと……採取は終わりました」
「魔物は?」
「グレイファングが一匹」
周囲の冒険者が少し反応する。
「倒したの?」
「……はい」
一瞬だけ静かになる。
それから。
「マジかよ」
「一人で?」
「新人だろ?」
「運良かっただけじゃねぇ?」
ざわつく。
レインの肩が強張る。
怖い。
視線が怖い。
否定される気がする。
笑われる気がする。
でも。
ミリアは書類を確認しながら頷いた。
「討伐証明ありますね」
狼の牙。
血痕。
傷。
全部本物。
「確認できました」
ミリアが笑う。
「初単独討伐、おめでとうございます」
その瞬間。
レインの胸が熱くなる。
認められた。
初めて。
少しだけ。
冒険者として。
「……ありがとう、ございます」
声が震える。
ミリアは報酬袋を差し出した。
「銅貨追加しておきました」
「え?」
「危険手当です」
「そんな」
「頑張りましたから」
レインは袋を受け取る。
重みは大したことない。
でも。
妙に重かった。
自分で稼いだ金。
一人で立って得た報酬。
その事実が、胸へ静かに残る。
ギルドを出た時。
レインは少しだけ立ち止まった。
空を見る。
青空だった。
昨日とは違う。
ほんの少しだけ。
世界が違って見えた。
その帰り道。
市場へ寄る。
野菜。
肉。
香辛料。
人の声。
レインは少し迷ってから、甘い焼き菓子を見つめた。
砂糖をまぶした小さな菓子。
セレナが好きそうだと思った。
「……」
買うか迷う。
恥ずかしい。
変に思われるかもしれない。
でも。
昨日、頑張った。
少しくらい。
いい気がした。
「一つ、ください」
宿へ戻る頃には昼を過ぎていた。
扉を開ける。
セレナは窓際に座って本を読んでいた。
珍しい光景。
レインは少し驚く。
「おかえり」
「……ただいまです」
自然に出た言葉だった。
セレナが少しだけ目を瞬かせる。
でも何も言わない。
その代わり。
「報告は」
「終わりました」
「怒られた?」
「……少し見られました」
「そう」
「でも」
レインは報酬袋を見せた。
「終わりました」
セレナは静かに頷く。
「よくやった」
その一言で十分だった。
レインは少し迷ってから、袋とは別に包みを差し出した。
「……これ」
「何」
「甘いの、好きかなって」
セレナが止まる。
数秒。
本当に数秒。
珍しく反応が遅れた。
「……覚えてたの」
「はい」
セレナは包みを受け取る。
開ける。
小さな焼き菓子。
砂糖の甘い香り。
セレナはそれを見て、少しだけ笑った。
「子供扱い?」
「ち、違います」
「冗談」
レインが慌てる。
セレナは小さく一口食べた。
甘い。
柔らかい。
「美味しい」
レインの胸が少し軽くなる。
セレナはそのまま窓の外を見る。
王都の空。
行き交う人。
平和な昼。
「レイン」
「はい」
「昨日、一人で立ったの」
「……はい」
「今日は、自分で帰ってきた」
レインは静かに聞く。
「そういうの、ちゃんと大事にしなさい」
風が部屋へ入る。
暖かい風だった。
レインは窓際のセレナを見る。
最強の人。
遠い人。
でも。
少しずつ。
隣に近づいている気がした。
まだ弱い。
まだ怖い。
まだ情けない。
それでも。
昨日よりは少しだけ立てている。
レインはゆっくり息を吸った。
そして。
今度は、ちゃんと前を向いた。




