72:一人で戦う
朝の空気は冷たかった。
王都北門。
灰色の雲が空を覆い、まだ昨夜の雨が石畳に残っている。
荷馬車が軋み、商人たちが声を張り上げ、衛兵が眠そうに槍を持って立っていた。
その喧騒の中で。
レインだけが、ひどく静かだった。
革袋。
安物の片手剣。
少ない荷物。
新人冒険者らしい装備。
それでも。
今日だけは、その重みが違った。
一人。
本当に一人だった。
セレナはいない。
隣に立つ銀髪の女はいない。
大丈夫と言ってくれる声もない。
だからこそ。
胸の奥が、ずっとざわついている。
「……っ」
吐き気がした。
門の近くで足を止める。
呼吸が浅い。
怖い。
情けないくらい怖い。
周囲の冒険者たちは普通に歩いている。
笑っている。
仲間と話している。
なのに自分だけ、心臓が壊れそうだった。
「……帰りたい」
小さく零れる。
本音だった。
宿へ戻りたい。
セレナのいる場所へ戻りたい。
暖かいスープを作って。
静かな部屋で。
あの人の声を聞いていたい。
そんな考えが浮かぶ。
でも。
レインは拳を握った。
逃げない。
逃げたくない。
あの夜、そう決めた。
レインはゆっくり歩き出す。
王都を出る。
冷たい風が頬を撫でた。
依頼内容は単純だった。
《青苔草》の採取。
薬師ギルドへ卸す素材。
場所は北東丘陵地帯。
低級魔物が出る程度。
本来なら新人向け。
死ぬような依頼ではない。
それでも。
レインにとっては十分怖かった。
街道を進む。
馬車が横を通る。
農民が畑を耕している。
遠くに風車。
煙突から煙。
平和な景色。
その途中。
小さな村が見えた。
石壁もない。
柵だけの貧しい集落。
畑は痩せている。
井戸も古い。
子供たちは裸足で走り回っていた。
レインは足を止める。
村の入口に、小さな屋台が出ていた。
年老いた女が鍋をかき混ぜている。
匂いが漂う。
野菜スープ。
安い匂い。
でも温かい匂いだった。
「坊や、食べるかい?」
声をかけられ、レインは肩を跳ねさせた。
「あ……」
「銅貨一枚だよ」
レインは少し迷う。
金は多くない。
でも。
腹は減っていた。
「……ください」
木椀を受け取る。
温かい。
レインは小さく頭を下げた。
「いただきます」
スープを飲む。
塩は薄い。
具も少ない。
でも。
身体へ染み込む。
老婆は目を細めた。
「冒険者かい?」
「……はい」
「若いねぇ」
レインは曖昧に笑う。
「一人?」
「はい」
「怖いだろ」
その言葉に、レインの動きが止まる。
老婆は笑った。
「皆そうだよ」
「……」
「最初から平気な奴なんていない」
レインは黙って聞く。
「うちの息子も昔、冒険者だった」
「え……」
「泣きながら門を出てったよ」
老婆は鍋を混ぜる。
「でも帰ってきた」
「……」
「怖かったって言いながらね」
レインは木椀を見つめた。
怖くてもいい。
その言葉が、少しだけ胸へ残る。
「ありがとうございます」
「死ぬんじゃないよ」
レインは小さく頷き、また歩き出した。
丘陵地帯へ入る。
草木が増える。
風が冷たい。
鳥の声。
遠くで獣の鳴き声。
レインは慎重に周囲を見る。
鑑定。
索敵。
まだ弱い。
精度も低い。
それでも以前より見える。
地形。
魔力反応。
足跡。
風の流れ。
少しずつ理解できるようになっていた。
「……青苔草」
岩場の陰。
湿った場所。
淡く青い苔状植物。
依頼対象。
レインはしゃがみ込み、丁寧に採取する。
根を傷めない。
泥を落とす。
袋へ入れる。
静かな作業。
こういう時間は嫌いじゃなかった。
一人でも。
少し落ち着く。
だが。
その時だった。
ぞわり、と。
背筋が冷えた。
「……っ」
気配。
右後方。
レインが振り返る。
そこにいた。
灰色の狼。
《グレイファング》。
低級魔物。
新人でも倒せる。
普通なら。
でも。
実際に一人で遭遇すると、足が震えた。
狼は低く唸る。
牙。
黄色い目。
殺意。
レインの呼吸が乱れる。
怖い。
怖い。
身体が動かない。
頭が白くなる。
セレナなら。
一瞬で斬る。
迷わない。
でも自分は違う。
弱い。
遅い。
情けない。
狼が飛び出した。
「っ!!」
レインは咄嗟に横へ転がる。
土まみれ。
肩を打つ。
痛い。
狼が再び向き直る。
速い。
心臓が暴れる。
逃げたい。
でも。
ここで逃げたら。
また同じだ。
レインは剣を抜く。
震えていた。
情けないくらい震えていた。
「……っ、ぁ……!」
声にならない。
狼が突っ込む。
レインは剣を振る。
浅い。
届かない。
狼の爪が腕を裂く。
「ぁっ!!」
熱い。
血。
痛み。
視界が揺れる。
怖い。
身体が後ろへ下がる。
狼が唸る。
次で終わる。
そう思った。
その瞬間。
レインの頭に、セレナの声が浮かぶ。
『呼吸を見なさい』
『焦ると死ぬ』
『怖くてもいい』
『止まるな』
レインは歯を食いしばった。
呼吸。
吸う。
吐く。
狼を見る。
足。
筋肉。
飛びかかる瞬間。
分かる。
鑑定が僅かに反応する。
動きの癖。
重心。
次の軌道。
狼が跳ぶ。
レインは横へ半歩。
避ける。
完全ではない。
肩が掠る。
でも。
見えた。
「水……!」
掌から水弾が放たれる。
小さい。
弱い。
それでも狼の目へ直撃した。
狼が怯む。
今。
レインは踏み込んだ。
震える足。
情けない剣。
それでも。
逃げない。
「ぁあああ!!」
剣が首へ入る。
浅い。
でも。
押し込む。
狼が暴れる。
怖い。
吐きそう。
でも。
離さない。
最後まで。
押し切った。
血が飛ぶ。
狼が倒れる。
静寂。
「……っ」
レインは数秒動けなかった。
剣を握ったまま。
息を荒げ。
震え続ける。
怖かった。
本当に怖かった。
勝った実感なんてない。
格好良くもない。
余裕もない。
ただ。
生き残った。
それだけだった。
「……は……っ」
膝が崩れる。
座り込む。
涙が出そうになる。
情けない。
低級魔物一匹でこれだ。
セレナとの差が遠すぎる。
届かない。
全然届かない。
でも。
レインはゆっくり狼を見る。
一人で倒した。
初めて。
本当に一人で。
その事実だけが、小さく胸へ残る。
レインは震える手で傷を押さえた。
光属性。
癒。
まだ弱い。
塞がりきらない。
でも出血は止まる。
「……帰らないと」
小さく呟く。
戻る。
あの宿へ。
セレナのいる場所へ。
その考えだけで、少しだけ足に力が戻った。
レインは立ち上がる。
傷だらけ。
泥だらけ。
格好悪い。
でも。
一人で戦った。
一人で怖がって。
一人で震えて。
一人で立った。
その事実だけは、消えなかった。
夕暮れが近づいていた。
赤く染まり始めた空の下。
レインはゆっくり王都への道を歩き始めた。




