70:ぶつかった夜
夜風は冷たかった。
王都の路地を抜けながら、レインはゆっくり歩いていた。
頭の中では、まだグレンの言葉が残っている。
『逃げんな』
短い言葉。
乱暴な言い方。
でも、不思議なくらい胸へ残っていた。
逃げるな。
その言葉は、レインが一番苦手なことだった。
昔から逃げてきた。
怒鳴り声。
視線。
失望。
期待。
全部怖かった。
だから俯いて。
謝って。
消えるように生きてきた。
でも。
セレナと出会ってから、少しだけ変わってしまった。
変わりたくなかったのに。
期待したくなかったのに。
それでも。
隣へ行きたいと思ってしまった。
宿屋へ着く頃には、夜も深くなっていた。
二階の窓から灯りが漏れている。
まだ起きている。
レインの胸が少し熱くなる。
待っていたのかもしれない。
そんな考えが浮かぶだけで落ち着かなくなる。
扉を開ける。
宿屋の食堂は静かだった。
客はもういない。
暖炉だけが赤く燃えている。
その前。
セレナが座っていた。
長い脚を組み、椅子へ深く腰掛けている。
机には酒瓶。
だが、ほとんど減っていなかった。
銀髪が火の光で揺れる。
レインが入ってきた瞬間。
セレナの視線が向いた。
「……遅い」
静かな声。
怒鳴ってはいない。
でも。
少しだけ硬い。
レインは喉を鳴らした。
「すみません」
「どこ行ってたの」
「少し……外を」
「探した」
短い言葉。
胸が痛くなる。
セレナは立ち上がる。
長身。
自然と圧がある。
レインは少し肩を縮めた。
「何も言わず消えないで」
「……ごめんなさい」
「また謝る」
セレナが眉を寄せる。
レインは俯いた。
駄目だ。
まただ。
責められると、すぐ縮こまる。
セレナはそれを見て、小さく息を吐いた。
「怒ってるわけじゃない」
「……はい」
「心配しただけ」
その言葉が、逆に苦しい。
心配される資格なんてない。
そう思ってしまう。
レインは拳を握った。
「……僕」
「うん」
「やっぱり、駄目かもしれません」
セレナの目が細くなる。
「何が」
「隣とか」
「……」
「無理です」
静かな食堂。
暖炉の火だけが揺れている。
レインは俯いたまま続けた。
「今日、グレンさんにも言われました」
「何を」
「逃げるなって」
セレナは黙って聞く。
「でも」
レインの声が震える。
「怖いんです」
「……」
「期待されるのも」
「優しくされるのも」
「隣って言われるのも」
喉が苦しい。
「全部」
セレナは動かない。
ただ聞いている。
「そのうち、失望される気がして」
「気持ち悪いって思われて」
「邪魔って言われて」
レインの呼吸が乱れる。
「だったら最初から」
そこで止まる。
言えない。
逃げたい。
離れたい。
そう言えば楽になる。
でも。
本当は離れたくない。
それが一番苦しかった。
セレナはゆっくり近づく。
レインの前へ立つ。
「顔上げて」
レインは動けない。
「レイン」
少し強い声。
レインはゆっくり顔を上げた。
目が合う。
赤い瞳。
真っ直ぐだった。
「失望されたら終わり?」
「……え」
「嫌われたら終わり?」
レインは答えられない。
セレナは続ける。
「そんなの当たり前よ」
「……」
「人間なんだから」
レインは目を瞬かせる。
「私は完璧じゃない」
「お前も完璧じゃない」
「ぶつかる時もある」
「嫌になる日もある」
セレナは小さく笑った。
「でも、それで終わりにするほど子供じゃない」
レインの胸が揺れる。
「……僕、重いです」
「知ってる」
「面倒だし」
「知ってる」
「暗いし」
「うん」
「怖がるし」
「そうね」
全部肯定される。
逃げ場がない。
でも。
否定されない。
セレナは少しだけ眉を下げた。
「でも」
暖炉の火が揺れる。
「だから捨てるほど、私は軽く生きてない」
レインの呼吸が止まる。
セレナは真っ直ぐ言った。
「そんな簡単に離れるなら、最初から隣に置かない」
胸が痛い。
熱い。
怖い。
レインは唇を噛んだ。
「……なんでですか」
「何が」
「なんで僕なんですか」
声が震える。
「もっとちゃんとした人、いるじゃないですか」
「強い人」
「明るい人」
「格好いい人」
「年上の人だって」
レインは俯く。
「僕じゃなくても」
「嫌」
即答だった。
レインが息を止める。
セレナは少し照れたように目を逸らす。
でも言葉は止めない。
「強いだけの人なら山ほど見た」
「格好つける人も見た」
「口だけの人も」
「私を利用する人も」
静かな声だった。
「でも」
セレナはレインを見る。
「怖がりながら前に出る人は少ない」
レインの胸が熱くなる。
「レインは弱い」
否定しない。
「でも」
「ちゃんと人を見てる」
「逃げたいのに残る」
「誰かが傷つくと、自分のことみたいな顔する」
セレナは少し笑う。
「そんなの、放っておけない」
レインはもう何も言えなかった。
暖炉の火が揺れる。
沈黙が落ちる。
でも苦しくない。
セレナは小さく息を吐いた。
「それに」
「……?」
「私も怖いの」
レインが目を見開く。
「え……」
セレナは苦笑した。
「そんな顔しないで」
「最強でも怖いものくらいある」
火の光が銀髪を照らす。
「また失うの怖い」
「また裏切られるの怖い」
「幸せになって、壊れるの怖い」
声は静かだった。
でも。
確かに震えていた。
レインは初めて見る。
戦場の英雄じゃない。
一人の女としてのセレナを。
「だから」
セレナは視線を向ける。
「お互い様」
レインの胸が苦しくなる。
この人も怖い。
同じだった。
強いのに。
誰より強いのに。
傷つくのを怖がっていた。
「……セレナさん」
「うん」
「僕」
言葉が詰まる。
でも。
逃げない。
「逃げたくないです」
セレナが少し目を細める。
「でも怖いです」
「うん」
「それでも」
レインは拳を握る。
「隣にいたいです」
静寂。
暖炉が弾ける。
セレナは数秒黙って。
やがて。
本当に少しだけ。
安心したように笑った。
「なら逃げないで」
レインは頷く。
「はい」
「ちゃんとぶつかりなさい」
「……ぶつかる」
「言いたいこと言う」
「怖くても逃げない」
「黙って消えない」
レインは少し困った顔になる。
「難しいです」
「知ってる」
セレナは笑う。
「だから練習」
その言葉が少し可笑しくて。
レインは小さく笑った。
本当に少しだけ。
でも。
ちゃんと笑えた。
セレナはその顔を見て、少し目を細める。
「……その顔、増えた」
「え?」
「笑う回数」
レインは慌てて顔を逸らした。
熱い。
恥ずかしい。
セレナはくすりと笑う。
その空気が心地よかった。
恋愛イベントじゃない。
劇的な告白でもない。
ただ。
怖がりな二人が。
逃げずにぶつかった夜だった。




