69:「逃げんな」
夜だった。
王都の外れ。
石畳は昼間の雨をまだ少しだけ残している。
街灯の魔導灯が淡く光り、湿った空気を照らしていた。
酒場の喧騒は遠い。
人通りも少ない。
レインは一人で歩いていた。
頭が整理できない。
胸が苦しい。
セレナの言葉が、何度も頭の中で響いていた。
『だから私は、隣に置いてる』
隣。
その響きが重い。
嬉しい。
怖い。
信じたい。
でも信じるのが怖い。
レインは俯いたまま歩く。
靴音だけが響く。
視線を上げられない。
昔からだ。
期待されるのが怖い。
優しくされるのが怖い。
どうせ最後は捨てられる。
そう思ってしまう。
レインは拳を握った。
「……駄目だ」
小さな声。
頭の奥がぐちゃぐちゃだった。
今日、ギルドでセレナは怒った。
本気で。
自分のために。
そんなこと、人生で一度もなかった。
だから分からない。
どう受け止めればいいのか。
怖い。
嬉しい。
苦しい。
逃げたい。
その時だった。
「よぉ」
低い声。
レインの身体が跳ねる。
反射的に肩が縮む。
そこに立っていたのは、昼間の男だった。
グレン。
A級冒険者。
大柄な体。
無精髭。
重装鎧。
片手には酒瓶。
レインは喉を鳴らした。
「……すみません」
条件反射だった。
グレンは眉をひそめる。
「なんで謝る」
「え……」
「癖か?」
レインは答えられない。
グレンは少し黙り。
やがて鼻を鳴らした。
「面倒くせぇな」
怖い。
怒鳴られる。
そう思った。
レインの呼吸が浅くなる。
だが。
グレンは酒を一口飲んで、壁へ寄りかかった。
「昼は悪かった」
レインは目を瞬かせる。
「……いえ」
「謝ったろ」
「……はい」
「なら終わりだ」
不器用な言い方だった。
レインは戸惑う。
グレンはレインを見る。
観察するように。
「お前、本当に変な奴だな」
「……すみません」
「だから謝るなって」
少し呆れた声。
グレンは空を見上げる。
「セレナがあんな怒り方したの、初めて見た」
レインの胸が少し痛む。
「……」
「あいつ、昔から何でも一人で抱える女だった」
グレンの声は静かだった。
「強すぎるからな」
「誰も隣に立てなかった」
レインは黙って聞く。
「仲間もいた」
「男もいた」
「でも全部駄目になった」
グレンは酒瓶を揺らす。
「置いていかれた奴もいる」
「潰れた奴もいる」
「利用した馬鹿もいる」
レインは少し俯いた。
セレナの傷。
その理由。
少しだけ見えた気がした。
「だから驚いた」
グレンが言う。
「あいつがお前を隣に置いてるの」
「……僕なんかを」
「そこだよ」
グレンが眉を寄せる。
「その“僕なんか”」
レインの肩が震える。
「……事実です」
「違う」
「弱いのは事実です」
「誰も弱いこと責めてねぇ」
グレンの声が低くなる。
「問題はそこじゃない」
レインは言葉を失う。
「お前、自分を諦めすぎだ」
胸へ刺さる。
痛い。
「セレナが見てんのは、強さじゃねぇよ」
「……」
「逃げながらでも立つとこだ」
レインは呼吸が止まりそうになる。
グレンは酒瓶を置いた。
「正直、俺はお前みたいなの嫌いだ」
レインの身体が強張る。
「見ててイラつく」
「う……」
「暗ぇし」
「はい……」
「すぐ謝るし」
「……」
「でも」
グレンは視線を向けた。
「逃げない奴は嫌いじゃねぇ」
レインの目が揺れる。
「お前、《大喰らい》で逃げなかったんだろ」
「……はい」
「普通の新人なら腰抜かして終わりだ」
レインはあの時を思い出す。
腐臭。
絶望。
巨大な肉塊。
本当は逃げたかった。
今でも怖い。
「でも最後まで残った」
グレンが言う。
「それは才能だ」
「……そんな立派なものじゃ」
「ある」
強い口調だった。
レインは黙る。
グレンは小さく息を吐く。
「セレナはな」
「弱い奴を嫌う」
レインの胸が冷える。
でも。
次の言葉は違った。
「でも、“弱いまま逃げる奴”をもっと嫌う」
静かな夜だった。
遠くで鐘が鳴る。
レインは俯いた。
怖い。
やっぱり怖い。
セレナの隣なんて。
自分が立っていい場所じゃない。
そう思ってしまう。
でも。
それでも。
あの人の隣へ行きたい。
その気持ちだけは、本物だった。
「……僕」
声が掠れる。
「怖いんです」
「知ってる」
「期待されるの」
「うん」
「隣って言われるのも」
グレンは黙って聞いている。
「そのうち、失望される気がして」
レインは拳を握る。
「気持ち悪がられて」
「捨てられて」
「邪魔って言われて」
呼吸が乱れる。
「そうなるくらいなら」
そこで止まる。
グレンは目を細めた。
「逃げるか?」
レインは黙る。
グレンは壁から身体を起こした。
そして。
真正面へ立つ。
大きい。
威圧感がある。
レインは少し後ずさった。
その瞬間。
グレンが低い声で言った。
「逃げんな」
短い言葉だった。
でも。
妙に重かった。
「……」
「怖ぇのは分かる」
「でもな」
グレンはレインを見る。
「逃げたら、あの女また一人になるぞ」
レインの胸が止まる。
「セレナは強い」
「一人でも生きる」
「でも、一人で生きてきたから今みたいになってる」
傷だらけ。
幸せになれないと思ってる女。
それがセレナだった。
「お前、あいつの顔見ただろ」
「……はい」
「笑ってるくせに、全然安心してねぇ」
レインは思い出す。
焚き火。
雨の日。
静かな朝。
眠れない夜。
セレナはいつも、どこか気を張っていた。
休んでいない。
生き残るために。
ずっと。
「だから」
グレンが言う。
「お前が逃げんな」
レインの喉が震える。
「弱くてもいい」
「格好悪くてもいい」
「震えててもいい」
「でも」
グレンは真っ直ぐ言った。
「隣に立ちたいなら、逃げんな」
静寂。
夜風が吹く。
レインは俯いたまま震えていた。
怖い。
本当に怖い。
でも。
逃げたくなかった。
セレナが、自分を見てくれたから。
初めて。
ちゃんと。
人として。
必要だと言われた気がしたから。
レインはゆっくり顔を上げる。
目はまだ弱い。
でも。
逃げていなかった。
「……はい」
小さな返事。
グレンは鼻を鳴らす。
「よし」
それだけ言って酒瓶を拾う。
「帰れ」
「セレナ待ってるぞ」
「え」
「お前がいねぇと、あいつ普通に探しに来る」
レインの胸が熱くなる。
グレンは背を向けたまま手を振る。
「次会う時までには、もう少し胸張れ新人」
そう言って去っていく。
レインは一人残された。
夜風が冷たい。
でも。
少しだけ。
胸の奥が温かかった。
逃げるな。
その言葉が、まだ胸に残っていた。




