68:怒鳴り声
朝だった。
王都はまだ薄暗い。
空には灰色の雲が残り、昨夜の雨が石畳へ湿り気を残している。
宿屋の食堂には焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
厨房では店主の老婆が鍋をかき混ぜている。
湯気。
スープ。
炙ったベーコン。
静かな朝。
レインは机へ座り、小さく息を吐いた。
眠れていない。
昨夜のことが頭から離れなかった。
『好きな人取られそうなら嫌でしょ』
セレナの声。
柔らかい目。
頭へ置かれた手。
思い出すだけで胸が熱くなる。
落ち着かない。
恥ずかしい。
逃げたくなる。
でも少し嬉しい。
そんな感情を処理できず、レインはスープを見つめていた。
「顔、死んでる」
向かいへ座ったセレナが言った。
今日は軽装だった。
白いシャツ。
黒いズボン。
銀髪を後ろでまとめている。
戦場ではない、普段の姿。
それでも綺麗だった。
「……寝不足です」
「知ってる」
「すみません」
「謝る前に食べる」
セレナがパンを投げてくる。
レインは慌てて受け取った。
「ちゃんと食べないと倒れる」
「はい」
レインは小さく頷く。
その様子をセレナは見ていた。
昨夜より少しだけ、空気が柔らかい。
逃げなかったからだ。
ちゃんと戻ってきたから。
それが少し嬉しかった。
「今日はギルド行くわよ」
「依頼ですか?」
「素材換金」
「あ……」
《大喰らい》の素材。
災害級魔物の解体品は国家級の価値を持つ。
牙。
魔核。
外殻。
特に核は高額だ。
レインは思い出す。
あの巨大な怪物。
胃のような肉壁。
腐臭。
吐き気。
恐怖。
身体が少し強張った。
セレナは気づく。
「……まだ怖い?」
レインは少し迷ってから頷いた。
「はい」
「そう」
セレナは笑わない。
軽く扱わない。
「なら忘れなくていい」
「え?」
「怖さ消えた奴から死ぬ」
静かな言葉。
重みがあった。
レインは小さく息を吐く。
「……はい」
「その代わり」
セレナはスープを飲む。
「慣れなさい」
「慣れる……」
「恐怖ごと動けるように」
レインはその言葉を胸へ落とす。
怖くなくなる必要はない。
怖くても動ければいい。
それは少しだけ。
救いのある考え方だった。
ギルドは朝から騒がしかった。
冒険者。
受付嬢。
酒臭い男たち。
笑い声。
怒鳴り声。
依頼掲示板の前では揉め事まで起きている。
レインはやはり苦手だった。
人が多い。
視線が刺さる。
自分が場違いに感じる。
自然と姿勢が縮こまる。
セレナはそんなレインを横目で見ながら歩いていた。
わざと少しだけ近くを歩く。
守るためではない。
安心させるためだった。
ギルドへ入った瞬間。
空気が変わる。
「あ」
「《紅蓮》だ」
「本当にいた」
視線が集まる。
セレナは慣れている。
気にしない。
でも今日は少し違った。
「隣、あいつじゃね?」
「例の新人」
「本当にいたのかよ」
ざわつく。
レインは肩を縮めた。
視線が怖い。
逃げたくなる。
でも。
セレナが隣にいる。
それだけで少し呼吸ができた。
受付嬢ミリアがこちらへ気づく。
「あ、セレナさん!」
栗色の髪を揺らしながら走ってくる。
明るい笑顔。
二十代前半くらい。
セレナとは長い付き合いらしい。
「素材持ってきた?」
「ええ」
「またとんでもない量なんでしょ?」
「今回は本当に面倒だった」
セレナが肩を回す。
ミリアはレインを見る。
「レイン君もお疲れ」
「……はい」
「顔色悪いけど大丈夫?」
「た、多分」
「多分なんだ」
ミリアが笑う。
その時だった。
「おい」
低い声。
空気が変わる。
男が近づいてきた。
三十代後半。
大柄。
重装鎧。
肩にはA級パーティの紋章。
周囲が少し静かになる。
実力者なのだろう。
男はセレナを見た。
「久しぶりだな」
「……グレン」
セレナの声が少し低くなる。
レインは気づいた。
空気が硬い。
この男。
知り合いだ。
しかも。
あまり良い相手ではない。
グレンは笑う。
「相変わらず綺麗だ」
「用件は?」
「冷たいな」
グレンの視線がレインへ向く。
「こいつか」
レインの身体が強張る。
男の目。
値踏みする視線。
苦手だった。
「新人」
「……はい」
「セレナと組んでるって?」
「一応……」
「へえ」
グレンが鼻で笑う。
「冗談みたいだな」
周囲が静かになる。
レインは俯いた。
慣れている。
こういう視線。
こういう空気。
「お前みたいなのが《紅蓮》の隣?」
「……」
「荷物持ちか?」
笑い声が少し漏れる。
レインの呼吸が浅くなる。
怖い。
情けない。
でも。
逃げるな。
そう思う。
レインは拳を握った。
「……違います」
「ん?」
「ちゃんと、戦いました」
声は小さい。
でも。
逃げなかった。
グレンは少し目を細める。
「へえ」
「言い返すんだな」
「……」
「でも事実だろ」
その時。
椅子が音を立てた。
セレナだった。
「グレン」
声が低い。
「やめなさい」
ギルドの空気が張る。
火属性魔力が僅かに漏れる。
熱。
圧。
グレンの笑みが少し消える。
「本当のこと言っただけだ」
「私の仲間を侮辱しないで」
静かな怒気。
レインは驚いていた。
セレナが怒っている。
自分のために。
「仲間、ね」
グレンが苦笑する。
「お前も変わったな」
「変わったのはそっち」
「……」
「昔なら、こんな弱いの拾わなかった」
その瞬間。
レインの胸へ深く刺さる。
弱い。
事実だった。
何も言い返せない。
視界が揺れる。
その時だった。
「いい加減にしろ!!」
怒鳴り声。
ギルド全体が静まる。
レインは目を見開いた。
セレナだった。
普段の彼女から想像できないほど大きな声。
怒り。
感情。
全部乗った声。
「弱い弱いって簡単に言うな!」
グレンが驚く。
周囲も固まっている。
セレナは続けた。
「怖がってるのに前に出る人間がどれだけ少ないと思ってる!」
「……」
「震えながら戦う人間を笑うな!」
熱が漏れる。
空気が震える。
レインは動けなかった。
セレナは。
本気で怒っていた。
「逃げたいのに立った」
「吐きながら戦った」
「それでも最後まで残った」
赤い瞳が真っ直ぐグレンを見る。
「それを弱いで片付けるなら」
セレナの声は低かった。
「私はお前を認めない」
沈黙。
誰も喋れない。
グレンは数秒黙り。
やがて小さく息を吐いた。
「……悪かった」
意外なほど素直な謝罪だった。
セレナは黙る。
グレンはレインを見る。
「確かに」
「逃げなかった奴を笑うべきじゃなかった」
レインは何も言えない。
頭が真っ白だった。
セレナは怒っている。
自分のために。
そんなこと。
人生で一度もなかった。
グレンは肩を竦める。
「すまんな新人」
「……いえ」
「セレナにそこまで言わせるなら、本当に何かあるんだろう」
そう言って去っていく。
ギルドの空気がゆっくり戻る。
ざわめき。
息遣い。
ミリアが苦笑した。
「セレナさん、珍しく本気で怒ったね」
「……うるさい」
セレナは少し気まずそうだった。
レインはまだ動けない。
胸が苦しい。
「レイン」
「……はい」
「気にしなくていい」
セレナはそっぽを向いたまま言う。
「弱いのは事実」
「でも」
少し間を置く。
「ちゃんと前に出てる」
レインの喉が詰まる。
涙が出そうになる。
認められた。
初めて。
ちゃんと見てもらえた気がした。
セレナは視線を逸らしたまま、小さく言う。
「だから私は、隣に置いてる」




