65:子供扱い
朝だった。
王都の空は薄く晴れ、昨夜まで降っていた雨の名残が石畳を淡く光らせている。
宿屋の窓から差し込む光は柔らかく、静かな部屋をゆっくり温めていた。
レインは台所で鍋を見ていた。
小さな鍋。
中では豆と野菜のスープが静かに煮えている。
香草。
玉ねぎ。
少しだけ燻製肉。
安い材料だ。
でも、手間はかけている。
火加減を見て、灰汁を取って、塩を少しずつ調整する。
読書と同じだった。
静かに積み重ねる作業。
レインはこういう時間が好きだった。
誰にも怒鳴られない。
誰にも見下されない。
ただ黙って、何かを整えられる時間。
「……いい匂い」
後ろから声がした。
振り返る。
セレナだった。
寝起き。
銀髪が少し乱れている。
黒いシャツ一枚。
長い脚。
眠そうな目。
色気が酷い。
レインは慌てて視線を逸らした。
「お、おはようございます」
「おはよう」
セレナは欠伸を噛み殺しながら椅子へ座る。
朝の光が銀髪に落ちる。
綺麗だった。
見慣れない。
いや。
毎日見てるのに、慣れない。
「またちゃんと寝てない」
セレナが言う。
レインが固まる。
「え」
「目の下」
レインは無意識に触れた。
昨夜。
結局、魔力制御の練習をしていた。
少しでも早く強くなりたくて。
少しでも追いつきたくて。
「……少しだけです」
「嘘」
即答だった。
セレナは机へ頬杖をつく。
「何時まで起きてた?」
「二時くらい」
「馬鹿」
レインが肩を縮める。
怒鳴られてはいない。
でも迫力がある。
セレナは溜め息を吐いた。
「身体壊したら意味ないって、前も言った」
「……すみません」
「あと謝る回数多い」
「すみません」
「増えた」
レインは黙った。
セレナは呆れた顔をする。
でも。
本気で怒っているわけじゃない。
それが少し分かるようになってきた。
昔のレインなら、もう部屋から逃げていた。
怒られる。
見捨てられる。
嫌われる。
そう思って。
でもセレナは違う。
怒鳴らない。
殴らない。
見下さない。
ただ、困った顔をする。
それが逆に苦しかった。
「スープできたら食べますか」
「食べる」
「パンもあります」
「偉い」
その言い方が、少し子供扱いみたいだった。
レインは小さく眉を寄せる。
セレナは気づいていない。
完全に自然だった。
数分後。
二人で朝食を取る。
静かな時間。
窓の外では商人たちが動き始めている。
荷車。
朝市。
焼き立てのパンの香り。
王都が目を覚ましていく音。
「……美味しい」
セレナが言う。
レインは少し安心した。
「塩、薄くないですか」
「ちょうどいい」
セレナはスープを飲む。
「前より上手くなった」
「……ありがとうございます」
「宿屋じゃなくても生きていける」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
レインは少し困った顔をした。
セレナはそんな反応を見ると少し笑う。
最近。
レインの表情が増えた。
まだ暗い。
まだ不安そう。
でも。
前みたいに完全に閉じてはいない。
セレナはそれが嬉しかった。
朝食を終えた後。
二人は冒険者ギルドへ向かった。
王都中央区。
巨大な石造りの建物。
朝から騒がしい。
武器の音。
笑い声。
依頼掲示板。
酒臭い男たち。
視線。
セレナが入った瞬間、空気が変わる。
「《紅蓮》だ」
「今日も綺麗だな……」
「隣の黒髪、あいつか」
ひそひそ声。
レインは少し俯く。
慣れない。
やっぱり。
視線が怖い。
セレナは受付へ向かう。
依頼確認。
その間。
レインは少し離れて待っていた。
「おい」
声。
振り向く。
三人組の冒険者だった。
二十代後半。
装備も悪くない。
中堅くらい。
「お前がレインか?」
「……はい」
「へえ」
男たちはレインを見る。
値踏み。
嫌な目。
「本当に《紅蓮》と組んでんだな」
「運いいな」
「可愛がってもらってんの?」
笑い声。
レインの胃が重くなる。
返事ができない。
怖い。
昔の記憶が蘇る。
囲まれる感覚。
馬鹿にされる感覚。
「黙ってんじゃねえよ」
一人がレインの肩を軽く押した。
強くはない。
でも身体が反応する。
びくりと震える。
男たちが笑った。
「ほんと気持ち悪いな」
「セレナさんも何考えてんだか」
「子犬でも拾った気分か?」
笑い声。
胸が痛い。
何も言い返せない。
言葉が出ない。
その時。
「……何してるの?」
空気が変わった。
セレナだった。
笑っていない。
静かな目。
それだけで男たちの顔色が変わる。
「い、いや別に」
「ちょっと話してただけで」
「そう」
セレナはレインを見る。
「行くわよ」
「……はい」
レインは小さく頷く。
セレナはそのまま歩き出した。
ギルドを出る。
少し歩く。
沈黙。
レインは俯いていた。
情けなかった。
また何も言えなかった。
また守られた。
セレナはそんなレインを横目で見る。
「気にしてる」
「……」
「図星?」
レインは小さく頷いた。
「子供扱いされてるって思った?」
レインが止まる。
セレナは本当に見ている。
隠せない。
「……はい」
声が小さい。
「ずっと」
レインは俯いた。
「守られてばっかりだから」
「……」
「セレナさん、強いし」
「僕、何もできないし」
喉が詰まる。
「対等じゃない」
セレナは少し黙った。
それから歩道脇のベンチへ座る。
「レイン」
「はい」
「こっち」
隣を叩く。
レインは少し迷ってから座った。
距離が近い。
少し緊張する。
セレナは前を見たまま話す。
「私はね」
「……はい」
「年下を守るの、慣れてる」
静かな声。
「仲間も弟子も後輩も」
「前に立ってきた」
「守る側だった」
レインは黙って聞く。
「だから多分、世話焼きなの」
セレナは苦笑した。
「もう癖」
「……」
「でも」
そこで言葉を切る。
「子供だと思ってるわけじゃない」
レインが顔を上げる。
セレナは真っ直ぐ前を見ていた。
「子供なら、一緒にダンジョン潜らない」
「……」
「背中も預けない」
レインの胸が熱くなる。
セレナは続ける。
「レインは弱い」
はっきり言う。
「今はまだ」
レインは少し傷つく。
でも逃げない。
「でも」
セレナはレインを見る。
「ちゃんと戦ってる」
「怖いのに」
「震えてるのに」
「逃げない」
その目は優しかった。
「それ、大人でもできない人多い」
レインは言葉を失う。
セレナは少し笑う。
「あとね」
「はい」
「本当に子供だったら」
少しだけ視線を逸らす。
「こんなに意識しない」
レインが固まる。
「……え?」
「何でもない」
セレナが立ち上がった。
誤魔化した。
でも。
耳が少し赤い。
レインの心臓がうるさくなる。
理解が追いつかない。
セレナは歩き出す。
「ほら」
「依頼行く」
「……は、はい」
レインは慌てて立ち上がる。
その背中を見る。
強い。
綺麗。
遠い。
でも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
前より距離が近くなった気がした。
王都の空は青かった。
人々の声が響く。
世界は変わらず騒がしい。
その中で。
二人は並んで歩いていく。
まだ対等じゃない。
まだ届かない。
それでも。
隣にいることだけは、もう許されていた。




