62:大人の男
夜だった。
雨はまだ降っている。
宿屋の窓を細かな雨粒が叩き、王都の灯りが濡れたガラス越しにぼやけていた。
暖炉の火が静かに揺れる。
煮込み鍋からは湯気が立ち、部屋には香草と乳の甘い匂いが広がっていた。
レインは台所で木杓子を動かしている。
白いシチュー。
玉ねぎ。
鶏肉。
根菜。
少量の香草。
焦がさないよう、ゆっくり混ぜる。
セレナは椅子へ座り、その背中を見ていた。
長い脚を組み、片肘を机につく。
今日は酒を飲んでいない。
代わりに湯気の立つ茶を口にしていた。
レインが淹れる甘い茶。
最近のお気に入りだった。
静かな時間だった。
暖炉の音。
雨音。
鍋が小さく煮える音。
セレナはこういう時間を知らなかった。
若い頃は、常に戦っていた。
朝も夜も剣。
討伐。
依頼。
遠征。
血。
怒号。
死体。
休む時間なんてなかった。
強くならなければ死ぬ。
それだけだった。
だから、誰かの作る飯を待つ時間が、こんなにも穏やかだとは知らなかった。
レインが鍋を見ながら言う。
「もう少しでできます」
「いい匂い」
「今日はパンもちゃんと発酵しました」
「楽しみ」
セレナは少しだけ笑った。
レインは相変わらず不器用だった。
話すのも下手。
視線も合わせない。
人が近づくと肩が強張る。
褒められると困る。
怒鳴り声で震える。
戦闘中に吐くこともある。
なのに。
最後だけは逃げない。
そこが妙に厄介だった。
セレナは目を細める。
今日、市場で会ったガルドの顔が脳裏をよぎる。
昔の仲間。
昔、一緒に戦った男。
大人だった。
昔から。
強くて。
落ち着いていて。
周囲が見えていた。
女にも慣れていた。
冒険者としても一流だった。
若い頃、好意を向けられたこともある。
でも結局、誰とも深くはならなかった。
戦場では、人は簡単に死ぬ。
だから距離を置いた。
そうしないと壊れるから。
レインが皿を並べ始める。
その動きは少しぎこちない。
皿を置く時、音を立てないよう慎重すぎる。
子供みたいだった。
いや。
違う。
子供よりもっと危うい。
怒られ慣れている人間の動きだ。
セレナは静かに見ていた。
「レイン」
「……はい」
「今日、ガルド見てどう思った?」
レインの手が少し止まる。
考えている。
それから、小さく答えた。
「……強い人だなって」
「それだけ?」
「……あと」
レインは少し迷う。
「大人だなって」
セレナは少しだけ目を細めた。
「大人」
「余裕がある感じで」
「僕と違って」
レインは俯く。
「ちゃんとしてる」
その声は静かだった。
劣等感。
諦め。
そういう色が混じっている。
セレナはそれに気づく。
「レイン」
「……はい」
「別に、ああいうのが正解じゃない」
レインが顔を上げる。
セレナは続けた。
「確かにガルドは頼れる」
「強いし、周りも見えてる」
「昔からそう」
少し懐かしそうな顔。
「でも、全部器用にできる人間なんていない」
レインは黙って聞く。
「ガルドは人を助けるのが上手い」
「でも、自分の痛みを隠すのも上手かった」
セレナは茶を飲む。
「だから無茶して、最後に倒れる」
「……」
「昔、一回死にかけた」
レインの目が揺れる。
「誰にも頼らず、一人で抱え込んで」
「結果、仲間が半壊した」
静かな声だった。
「強い人ってね」
セレナは窓の外を見る。
「案外、勝手に壊れるの」
雨が降る。
王都の夜は暗い。
レインは小さく呟いた。
「セレナさんも……ですか」
セレナが笑う。
「そうね」
否定しない。
「私も結構、壊れてる」
軽く言う。
でも本当だった。
仲間を失った。
弟子を死なせた。
裏切られた。
利用された。
何度も何度も、死にそうになった。
生き残った。
でも。
幸せにはなれなかった。
レインは黙る。
それから、ぽつりと言った。
「……僕」
「うん?」
「今日、少し嫌でした」
「何が?」
「ガルドさん」
セレナが少し驚く。
レインは慌てて言葉を探した。
「嫌っていうか……」
「……うまく言えないですけど」
「ちゃんとしてて」
「強くて」
「余裕があって」
「セレナさんとも昔から知り合いで」
喉が詰まる。
「僕と全然違うから」
声が小さい。
でも本音だった。
セレナはしばらく黙っていた。
それから。
「嫉妬?」
レインの顔が真っ赤になった。
「ち、違っ……」
「違わない顔してる」
「……」
レインは完全に固まる。
セレナは少し笑った。
珍しく意地悪な笑みだった。
「可愛い」
「やめてください……」
レインは耳まで赤い。
セレナはその顔を見ると、少し楽しくなる。
こんな感覚、久しぶりだった。
昔はもっと尖っていた。
誰かをからかう余裕なんてなかった。
レインは俯きながら言う。
「僕、子供っぽいですよね」
「まあ若いし」
「二十歳です」
「私は二十八」
「……はい」
「八歳差」
レインはますます縮こまる。
セレナは椅子から立ち上がった。
長身。
自然と圧がある。
レインは少し肩を強張らせる。
でも、逃げない。
セレナはレインの前まで歩いてくる。
近い。
香草と火の匂い。
レインの心臓がうるさい。
「レイン」
「……はい」
「大人の男ってね」
セレナは静かに言う。
「余裕がある人のことじゃない」
「……え?」
「怖くても」
「格好悪くても」
「ちゃんと向き合える人」
レインが目を瞬かせる。
セレナは続けた。
「あなた、怖がりでしょう」
「……はい」
「震えるし」
「はい」
「吐くし」
「……はい」
「でも逃げない」
セレナの目が柔らかい。
「そこは、すごいと思う」
レインは固まる。
褒められ慣れていない。
だから、どう反応していいか分からない。
セレナは少し笑った。
「あと」
「……?」
「嫉妬するくらいには、ちゃんと男」
レインの顔が一気に赤くなる。
「せ、セレナさん!」
「何?」
「そういうこと普通に言わないでください……」
「なんで?」
「心臓に悪いです」
セレナは笑った。
本当に楽しそうだった。
暖炉の火が揺れる。
雨音が続く。
レインは顔を隠すように鍋へ向き直る。
「……シチュー冷めます」
「話逸らした」
「逸らしてません」
「逸らした」
レインは黙って皿へシチューをよそう。
セレナはその背中を見つめる。
まだ弱い。
細い。
頼りない。
でも。
この子は少しずつ前へ進んでいる。
守られるだけじゃない。
隣へ来ようとしている。
それが嬉しかった。
レインが皿を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
セレナは受け取る。
一口食べる。
温かい。
優しい味。
「……美味しい」
レインが少し安心した顔をする。
その顔を見ると、胸の奥が少しだけ柔らかくなる。
セレナは思う。
この子はまだ子供だ。
でも。
きっといつか、本当に大人になる。
誰かを守れる男になる。
その時。
自分は隣にいるのだろうか。
そんなことを考えてしまった。
窓の外では、まだ雨が降っている。
けれど宿屋の小さな部屋だけは、確かに温かかった。




