61:元仲間
朝から雨だった。
王都の空は重く、低い灰色の雲が街全体へ影を落としている。
石畳は濡れ、馬車の車輪が泥水を跳ね上げていた。
市場通りには湯気が立つ。
焼きたての黒パン。
肉の煮込み。
甘い焼き菓子。
雨の日ほど、人は温かいものを求める。
王都は巨大だった。
人が多い。
音も多い。
怒鳴り声。
笑い声。
商人の呼び込み。
鉄を打つ音。
レインはそういう空気が苦手だった。
人混みの中を歩くだけで息が詰まりそうになる。
視線が怖い。
知らない人間が怖い。
笑われる気がする。
気持ち悪がられる気がする。
今日も少し俯きながら歩いていた。
そんなレインの隣を、セレナは平然と歩く。
長身。
銀髪。
目立つ。
誰が見ても強者だと分かる。
通行人が自然と道を開けていく。
視線も集まる。
「《紅蓮》だ」
「本物かよ……」
「隣の男、噂の新人か?」
「え、あれ?」
「普通すぎない?」
小声が聞こえる。
レインの肩が少し縮こまった。
セレナは横目で見て、小さく息を吐く。
「気にしなくていい」
「……はい」
「どうせ暇人の噂話」
セレナの声は落ち着いていた。
レインは少しだけ肩の力を抜く。
不思議だった。
この人が隣にいると、少しだけ呼吸がしやすい。
二人は市場へ来ていた。
討伐から数日。
今日は久しぶりに休みだった。
レインが食材を見て回っている。
野菜。
香草。
干し肉。
小麦粉。
乳製品。
この世界の食事は、まだ粗い。
保存食中心。
塩が強い。
焼くだけ。
煮るだけ。
それでも、工夫次第で美味くなる。
レインは前の世界の知識を持っているわけじゃない。
特別な料理人でもない。
でも、丁寧に作ることを知っていた。
弱火。
下処理。
香草。
出汁。
そういう小さな積み重ね。
セレナはそれが好きだった。
「今日は何作るの?」
「シチューです」
「また?」
「嫌でしたか」
「好き」
即答だった。
セレナは少しだけ口元を緩める。
「雨の日は温かいのがいい」
「……分かります」
レインも少し笑った。
最近、ほんの少しだけ笑う回数が増えた。
セレナはそれに気づいている。
市場を歩く。
雨の匂い。
濡れた石。
蒸気。
その時だった。
「……セレナ?」
声。
低い男の声。
セレナの足が止まる。
レインも止まった。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
三十代前半。
短い茶髪。
長剣を背負っている。
高級装備。
身体つきも強い。
熟練の冒険者だと分かる。
男はセレナを見て、驚いた顔をしていた。
「やっぱりお前か」
セレナの目が細くなる。
「……ガルド」
レインはその空気で理解した。
知り合いだ。
しかも。
かなり深い。
ガルドは苦笑する。
「久しぶりだな」
「そうね」
短い返事。
セレナの声は冷静だった。
でも、少しだけ硬い。
ガルドはレインを見る。
「そっちが噂の新人?」
レインが肩を強張らせる。
「……レインです」
「へえ」
値踏みする視線。
レインは少しだけ俯いた。
その瞬間。
セレナが一歩前へ出た。
自然だった。
守るように。
庇うように。
ガルドはそれを見て、苦笑を深くする。
「変わったな、お前」
「何が?」
「昔のお前なら、誰かを後ろに置かなかった」
セレナは答えない。
雨音が落ちる。
市場の喧騒が遠く聞こえる。
ガルドは小さく息を吐いた。
「……少し話せるか?」
「内容による」
「そんな警戒するな」
「する理由がある」
空気が少し冷える。
レインは黙っていた。
この二人の間に、何かがある。
それだけは分かる。
ガルドは困ったように頭を掻いた。
「酒場でもどうだ」
「昼間から飲まない」
「お前が言うか?」
「今は控えてる」
「珍しいな」
セレナは黙る。
ガルドの視線が、もう一度レインへ向いた。
「新人」
「……はい」
「セレナは面倒だぞ」
レインが固まる。
ガルドは笑う。
「強い」
「頑固」
「無茶する」
「人を抱え込む」
「自分は平気な顔して壊れる」
セレナが睨む。
「ガルド」
「本当のことだろ」
ガルドの目は真面目だった。
「昔からそうだった」
レインはセレナを見る。
セレナは視線を逸らした。
「……関係ない話よ」
「関係ある」
ガルドは静かに言う。
「昔、お前は全部一人で抱え込んだ」
「……」
「仲間が死んだ時も」
空気が止まる。
レインは息を呑んだ。
セレナの表情が消える。
ガルドは続ける。
「俺たちは支えようとした」
「でもお前、全部拒否した」
「……」
「守る側だからって、一人で全部やろうとした」
雨音だけが響く。
ガルドの声は責める声ではなかった。
悔しそうだった。
「結果、パーティは壊れた」
セレナの拳が少しだけ握られる。
レインは見ていた。
この人にも過去がある。
当たり前だ。
最強の冒険者。
そこへ辿り着くまで、何もなかったわけがない。
失って。
傷ついて。
裏切られて。
それでも立ち続けた。
ガルドは静かに言った。
「俺は、お前が仲間を作らなくなったと思ってた」
視線がレインへ向く。
「でも違ったみたいだな」
セレナが小さく眉を寄せる。
「勘違いしないで。まだ新人よ」
「お前が新人を隣に置く時点で異常だ」
「……」
「しかも庇ってる」
セレナは言葉を返さなかった。
ガルドは少し笑う。
「安心した」
「何が」
「お前、生きてる顔してる」
その瞬間。
セレナがほんの少しだけ目を見開いた。
レインは気づく。
この人はずっと。
生き残っているだけだったのかもしれない。
前へ進んでいるようで。
本当は止まっていた。
ガルドが言う。
「また組めとは言わない」
「昔には戻れない」
「でも」
視線が柔らかくなる。
「少しくらい、誰かを頼れ」
セレナは黙る。
雨が降る。
市場の音が遠い。
その時だった。
レインが小さく口を開く。
「あの」
二人が見る。
レインは少し震えていた。
でも、逃げなかった。
「セレナさんは」
喉が詰まりそうになる。
それでも続ける。
「ちゃんと、僕を頼ってくれてます」
セレナの目が揺れる。
ガルドも少し驚いた顔をした。
レインは俯きそうになる。
怖い。
変なことを言った気がする。
でも。
嘘じゃなかった。
「料理とか」
「魔物の核とか」
「索敵とか」
「小さいことですけど」
拳を握る。
「僕、ちゃんと役に立ちたいです」
ガルドはしばらく黙っていた。
それから。
ふっと笑った。
「……なるほどな」
セレナが眉を寄せる。
「何よ」
「お前が拾うわけだ」
「拾ってない」
「はいはい」
ガルドは少しだけ笑う。
「新人」
「……はい」
「セレナは強い」
「でも、強すぎる人間は、放っておくと一人になる」
レインは黙って聞く。
「だから」
ガルドの声は静かだった。
「隣に立つなら、途中で逃げるな」
レインの心臓が強く鳴る。
怖い。
でも。
ゆっくり頷いた。
「……はい」
ガルドは満足そうに笑う。
「ならいい」
そう言って背を向ける。
雨の中を歩き出す。
セレナが小さく呼ぶ。
「ガルド」
男が振り返る。
セレナは少し迷ってから言った。
「……生きててよかった」
一瞬。
ガルドが目を見開いた。
それから。
本当に少しだけ笑う。
「そっちもな」
男は去っていく。
雨の向こうへ。
セレナはしばらくその背中を見ていた。
レインは隣に立つ。
何も言わない。
無理に慰めない。
ただ一緒に立つ。
セレナは小さく息を吐いた。
「……帰りましょうか」
「はい」
「シチュー、冷める前に作って」
「急ぎます」
レインが答える。
セレナは少し笑った。
雨の王都を並んで歩く。
肩が触れそうなくらい近い距離。
それでも、不思議と苦しくなかった。
過去は消えない。
死んだ仲間も。
失った時間も。
戻らない。
それでも。
人はまた誰かと歩ける。
雨の街を進む二人の背中は、少しだけ自然に並んでいた。




