57:呼吸を合わせる
森が揺れていた。
《大喰らい》。
巨大魔獣は木々を押し倒しながら現れた。
黒い外皮。
裂けた顎。
赤黒い唾液。
地面を踏みしめるたびに土が震える。
それは生物というより、災害に近かった。
討伐隊の空気が変わる。
恐怖。
緊張。
死の匂い。
レインは喉が乾くのを感じた。
呼吸が浅い。
心臓が痛いほど速い。
逃げたい。
本能が叫ぶ。
無理だ。
勝てる相手じゃない。
あんなもの、人間が戦う存在ではない。
その時。
隣でセレナが剣を構えた。
巨大な大剣。
火炎の魔力。
銀髪が揺れる。
「レイン」
「……はい」
「呼吸」
短い言葉。
「吸って」
レインは息を吸う。
「吐いて」
吐く。
「もう一回」
レインは震えながら従う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
視界が戻った。
「よし」
セレナは前を見たまま言う。
「怖い?」
「……はい」
「いい」
その声は静かだった。
「怖くなくなった人間から死ぬ」
レインは目を見開く。
セレナは続ける。
「恐怖は必要」
「問題は、呑まれること」
大喰らいが咆哮する。
空気が震える。
鳥が飛び立つ。
新人冒険者の一人が腰を抜かした。
「ひっ……!」
セレナは前へ出る。
「前衛、散開」
「騎士団は脚を止めろ」
「魔法職は視界確保」
「レインは私の後ろ」
全員が動き出す。
自然だった。
S級冒険者の言葉には、それだけの重みがある。
レインは剣を握る。
汗で滑る。
情けないほど震えていた。
でも。
逃げなかった。
《大喰らい》が突進する。
地面が爆ぜた。
速い。
巨大なのに。
信じられない速度。
「来る!」
騎士が叫ぶ。
次の瞬間。
セレナが踏み込んだ。
轟音。
火炎。
巨大剣が黒い外皮に叩き込まれる。
森全体が揺れた。
だが。
浅い。
外皮が硬すぎる。
大喰らいが尾を振るう。
「っ!」
セレナが吹き飛ぶ。
木を砕きながら着地。
誰かが青ざめる。
今のを耐えるのか。
レインは息を呑む。
セレナは立ち上がる。
口元から血。
でも笑っていた。
「やっぱり硬いわね」
その目は死んでいない。
むしろ燃えていた。
「レイン!」
「は、はい!」
「左脚!」
レインは即座に鑑定する。
魔力。
筋繊維。
再生速度。
流れ。
見える。
「膝裏!」
「再生遅い!」
「炎通ります!」
「了解!」
セレナが走る。
速い。
炎を纏った身体が一直線に駆ける。
大喰らいが口を開く。
黒い粘液。
腐臭。
「危ない!」
レインが叫ぶ。
風魔法。
「風壁!」
暴風。
粘液の軌道が逸れる。
木々が溶けた。
もし直撃していたら終わっていた。
セレナが低く笑う。
「いい援護」
そのまま跳躍。
巨大剣が膝裏へ叩き込まれる。
火炎炸裂。
肉が裂ける。
《大喰らい》が悲鳴を上げた。
巨体が傾く。
「今だ!!」
騎士団が突撃する。
槍。
魔法。
矢。
一斉攻撃。
レインは息を切らしながら見る。
連携。
戦場。
人が死ぬ場所。
でも。
今。
少しだけ。
自分が役に立っている。
その瞬間だった。
地面が揺れる。
「下がれ!!」
セレナが叫ぶ。
遅い。
《大喰らい》が暴れた。
巨大な前脚。
騎士二人が吹き飛ぶ。
血。
骨。
悲鳴。
空気が凍る。
レインの足が止まる。
怖い。
動けない。
まただ。
頭が真っ白になる。
その時。
「レイン!!」
セレナの声。
強い声。
「見ろ!!」
レインは無理矢理視線を上げる。
「止まるな!」
「呼吸!」
レインは息を吸う。
吐く。
震える。
でも。
見た。
大喰らいの魔力の流れ。
口腔内部。
再生。
熱。
そして。
「……喉」
レインが呟く。
「中、柔らかい」
セレナの目が変わる。
「届く?」
「一瞬なら!」
「なら作る!」
セレナが走る。
真正面から。
誰もが目を疑う。
真正面。
死ぬ。
普通なら。
大喰らいが咆哮。
口を開く。
巨大な牙。
闇みたいな口内。
「レイン!!」
叫び。
レインは両手を前に出す。
魔力。
暴走。
怖い。
でも。
止めない。
「水鎖!!」
大量の水が生まれる。
空中で鎖へ変化。
巨大な口を拘束。
ギシギシと悲鳴を上げる水鎖。
魔力が足りない。
いや。
ありすぎる。
制御できない。
身体が裂けそうだった。
「ぐっ……!」
血を吐く。
でも。
一瞬止まった。
その一瞬で十分だった。
セレナが跳ぶ。
炎。
爆発。
銀髪が宙を舞う。
「燃えなさい」
巨大剣が口内へ突き刺さった。
轟炎。
森を赤く染めるほどの火力。
《大喰らい》が絶叫した。
巨大な身体が暴れる。
地面が割れる。
木々が倒れる。
レインは吹き飛ばされる。
背中を地面に打つ。
息ができない。
痛い。
怖い。
でも。
セレナを探した。
「セレナさん……!」
炎の中。
女が立っていた。
巨大剣を握ったまま。
血まみれで。
傷だらけで。
それでも。
前を向いていた。
美しかった。
強かった。
レインは胸が熱くなる。
セレナが振り返る。
目が合う。
その瞬間。
二人とも理解した。
今。
噛み合った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
戦場で。
呼吸が合った。
それは恋ではない。
甘いものでもない。
命を預ける瞬間。
死の隣で生まれる信頼だった。
《大喰らい》が膝をつく。
討伐隊が歓声を上げる。
まだ終わっていない。
だが。
流れが変わった。
セレナは肩で息をしながらレインへ歩く。
「立てる?」
「……なんとか」
「嘘ね」
セレナが苦笑する。
レインも少し笑った。
「……少しだけ」
「なら十分」
セレナは自然にレインの肩を支える。
熱い。
近い。
心臓がうるさい。
でも。
今はそれより。
もっと強い感情があった。
悔しい。
もっと動きたい。
もっと支えたい。
隣に立ちたい。
セレナはレインを見る。
「ねえ」
「はい」
「今、怖かった?」
「……すごく」
「私も」
レインは驚く。
「S級でも?」
「S級でも」
セレナは笑う。
「だから合わせるの」
「一人で戦わないために」
レインはその言葉を胸に刻む。
強い人は孤独だと思っていた。
全部一人で背負う人だと。
でも違った。
本当に強い人は。
誰かと呼吸を合わせることを知っている。
その事実が。
レインには少しだけ嬉しかった。




