54:幸せになれなかった女
夜の街は静かだった。
グランゼイル東区画。
石造りの建物が並ぶ通りを、レインとセレナは並んで歩いていた。
昼間の喧騒はもうない。
酒場から漏れる笑い声。
酔った冒険者の歌。
遠くで鳴る鐘。
そんな音だけが、夜の空気に溶けている。
大型魔物討伐の準備は進んでいた。
地図。
保存食。
治療薬。
山道の情報。
危険地帯。
全部を揃えながら、二人は少しずつ北部行きへ近づいている。
けれど、レインの心は軽くなかった。
怖い。
死ぬかもしれない。
役に立てないかもしれない。
また足を引っ張るかもしれない。
頭の中に、嫌な想像ばかり浮かぶ。
「考え込みすぎ」
隣から声がした。
レインは肩を揺らす。
「顔に出てる」
「……すみません」
「謝らなくていい」
セレナは歩幅を少し落とした。
レインに合わせている。
自然に。
何でもないことみたいに。
「怖い?」
「はい」
「正常」
即答だった。
「怖くない新人の方が危ない」
レインは少し苦笑する。
「セレナさんって、いつもそう言いますよね」
「現実だから」
風が吹く。
銀髪が揺れた。
夜の灯りに照らされる横顔は綺麗だった。
でも。
どこか寂しい。
レインはそれを感じる。
「……セレナさん」
「ん?」
「どうして、そこまで強くなったんですか」
セレナは少しだけ目を細めた。
「生き残るため」
「それだけ?」
「最初は」
歩きながら答える。
「最初は、お金だった」
「お金」
「家が貧しかった」
レインは少し驚いた。
セレナは遠い目をする。
「南の小さい村」
「畑しかない場所」
「魔物が出る」
「税は重い」
「冬は人が死ぬ」
静かな口調だった。
「父親は病気」
「母親は働き詰め」
「弟と妹いた」
レインは黙って聞く。
「食べ物足りなくて」
「私だけ冒険者になった」
「稼げると思ったから」
セレナは苦笑する。
「甘かった」
「新人冒険者なんて、すぐ死ぬ」
「弱い」
「知識ない」
「装備ない」
「守ってくれる人もいない」
レインは、自分の手を見る。
今の自分に少し重なった。
「何回も死にかけた」
「仲間も死んだ」
「騙された」
「利用された」
「身体目当ての男もいた」
セレナは平然と言う。
でも。
平然と話せるくらい、痛みを飲み込んできたのだと分かる。
「それでも、生き残った」
「強かったからですか」
「違う」
セレナは即答した。
「運が良かっただけ」
「強い人もいっぱい死んだ」
夜風が冷たい。
レインは静かに歩く。
「……家族は」
「もういない」
短い返事だった。
「病気」
「飢え」
「冬」
「間に合わなかった」
レインは胸が苦しくなる。
セレナは前を見る。
「だから強くなった」
「誰よりも」
「二度と奪われないように」
その言葉には重みがあった。
力のない人間が奪われる世界。
だから力を求めた。
レインには、それが少し分かる。
「でも」
セレナは小さく笑う。
「強くなったら、別のもの失った」
「別のもの」
「普通」
レインは黙る。
「友達」
「恋人」
「家族」
「平和な時間」
「そういうの、全部遠くなった」
夜道を歩く。
石畳を靴が鳴らす。
「若い頃、一回だけ」
セレナがぽつりと言った。
「好きだった人いた」
レインの心臓が少し跳ねた。
でも表情には出せない。
「同じ冒険者」
「槍使い」
「馬鹿で」
「うるさくて」
「でも優しかった」
少しだけ笑う。
懐かしそうだった。
「結婚しようって言われた」
レインは息を止めた。
「返事、しなかった」
「なんでですか」
「怖かったから」
セレナは静かに言う。
「幸せになるの」
レインは理解できなかった。
「……怖いんですか」
「怖い」
「幸せって」
「壊れるから」
その言葉は、妙に静かだった。
「仲間もそう」
「家族もそう」
「手に入れたもの、全部なくなった」
「だから思った」
「私は、幸せになれない人間なんだって」
レインは何も言えなかった。
言葉が見つからない。
セレナは強い。
最強クラス。
誰よりも前を歩く人間。
でも。
本当は、ずっと失い続けてきた。
「その人は」
レインは慎重に聞く。
「……死んだんですか」
「死んだ」
短かった。
「私を庇って」
レインの胸が痛む。
セレナは笑わなかった。
「それ以来」
「恋愛とか、考えなくなった」
「向いてない」
「重いし」
「面倒だし」
「私みたいなのと一緒にいたら、相手が不幸になる」
レインは思わず言った。
「そんなことないです」
セレナが止まる。
夜道の真ん中。
静かな街灯の下。
「……なんでそう思うの」
「だって」
レインは困ったように言葉を探す。
「セレナさん、優しいから」
セレナは少し目を見開いた。
「優しい人と一緒にいるの、不幸じゃないです」
「優しくない」
「優しいです」
「人殺してる」
「でも守ってる」
レインは真っ直ぐ言った。
「ちゃんと見てる」
「待ってくれる」
「傷ついた人のこと、忘れてない」
セレナは黙った。
夜風だけが吹く。
「……レイン」
「はい」
「あなた、変」
「すみません」
「褒めてる」
レインは少し困る。
セレナは小さく笑った。
本当に小さく。
壊れそうなくらい微かな笑み。
「普通の人間って」
「もっと自分優先」
「あなた、自分削って人見る」
「危ない」
「でも」
その目が少し柔らかい。
「嫌いじゃない」
レインの顔が熱くなる。
視線を逸らした。
心臓がうるさい。
「……レイン」
「はい」
「あなた、いつか死にそう」
「え」
「優しいから」
「そういう人、無茶する」
レインは苦笑した。
「セレナさんもじゃないですか」
「私はいい」
「よくないです」
即答だった。
セレナが少し止まる。
「なんで」
「……死んでほしくないから」
レインは俯きながら言った。
恥ずかしい。
でも本音だった。
セレナはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……困る」
小さく呟く。
「そういうこと言われると」
「すみません」
「だから謝らなくていい」
二人はまた歩き始めた。
宿屋へ向かう道。
夜の空気。
少し冷たい風。
「レイン」
「はい」
「私、多分」
「普通の幸せ、向いてない」
レインは静かに聞く。
「朝起きて」
「家族いて」
「子供いて」
「平和に暮らすとか」
「そういうの」
「壊しそう」
「壊れません」
レインは言う。
「分からないですけど」
「セレナさんが本当に大事にしたいなら」
「ちゃんと守ると思います」
セレナは少しだけ笑った。
「買い被り」
「違います」
「……変な子」
宿屋の灯りが見える。
温かな光。
帰る場所。
それを見ながら、セレナはぽつりと言った。
「昔」
「幸せになりたかった」
その声は、とても小さかった。
誰にも聞かせないような声。
「綺麗な家住んで」
「家族作って」
「普通に笑って」
「そんなの、夢だった」
レインは隣を歩く。
何も言えない。
軽い言葉では触れられない。
でも。
それでも。
「……まだ」
レインは小さく言った。
「終わってないと思います」
セレナは足を止めた。
「何が」
「幸せ」
夜風が吹く。
銀髪が揺れる。
セレナはレインを見る。
真っ直ぐ。
少し困ったように。
少し苦しそうに。
そして。
ほんの少しだけ、嬉しそうに。
「……本当に」
「変な子」
その夜。
宿屋へ戻るまでの道は短かった。
でも。
二人の間に流れる空気は、少しだけ変わっていた。
恋ではまだない。
答えでもない。
ただ。
傷だらけの女と、不器用な少年が。
静かに隣を歩いていた。




