52:酒と昔話
雨だった。
昼から降り始めた雨は、夜になっても止まなかった。
石畳を叩く水音が、宿屋の窓を細かく震わせる。
グランゼイル西区画。
冒険者向けの安宿。
二階の小部屋は狭かった。
木製の机。
簡素な寝台。
濡れた外套を掛ける縄。
壁には古い染み。
それでも、今のレインには十分すぎる場所だった。
部屋の中央には小さなランタン。
淡い橙色の光が揺れている。
レインは椅子に座り、濡れた剣を布で拭いていた。
安物の片手剣。
刃こぼれも多い。
柄も少し緩い。
でも、最近は毎日手入れしている。
セレナに言われたからだ。
「剣を雑に扱う人間は、だいたい死ぬ」
静かな口調だった。
怒ってはいなかった。
でも、重かった。
だからレインは毎日磨く。
少しでも。
生き残るために。
「真面目」
向かいから声がした。
セレナだった。
長椅子に腰掛け、酒瓶を片手にこちらを見ている。
銀髪は少し濡れていた。
風呂上がりなのだろう。
白いシャツ一枚。
脚を組み、窓際に寄りかかっている。
色気が強い。
レインは直視できない。
「……大事って言われたので」
「言った」
セレナは小さく笑った。
酒を飲む。
喉が動く。
綺麗だった。
「レイン」
「はい」
「そんな緊張しなくていい」
「……してません」
「してる」
即答だった。
レインは黙る。
図星だった。
部屋に二人きり。
近い。
静か。
落ち着かない。
セレナは酒豪だ。
冒険者の間でも有名だった。
高級酒でも蒸留酒でも平気で飲む。
酔い潰れた姿を見た人間はいないらしい。
そのくせ顔色も変わらない。
「飲む?」
酒瓶を軽く持ち上げる。
「……少しなら」
「偉い」
「断れないだけです」
「それでも飲めるなら成長」
セレナはコップに酒を注いだ。
琥珀色。
香りが強い。
麦酒ではない。
蒸留酒に近い。
レインは恐る恐る口をつけた。
熱い。
喉が焼ける。
「げほっ……!」
「初心者」
セレナが笑う。
珍しく、少し楽しそうだった。
「無理しなくていい」
「……負けた気がして」
「誰に」
「分かりません」
「じゃあ気にしなくていい」
レインは咳き込みながら水を飲んだ。
セレナはまた酒を口へ運ぶ。
外では雨。
部屋の中は暖かい。
静かな時間だった。
「昔」
ぽつりとセレナが言った。
「弟子いた」
レインは顔を上げた。
初めて聞く話だった。
セレナは窓の外を見る。
「十六くらいの男の子」
「真面目で」
「弱くて」
「必死だった」
レインは何も言わない。
「よく吐いてた」
「剣握るだけで震えてた」
「でも逃げなかった」
ランタンの火が揺れる。
セレナの横顔に影が落ちた。
「……死んだ」
静かな声だった。
怒りもない。
泣いてもいない。
でも。
重かった。
「私が油断した」
「大丈夫だと思った」
「少し強くなったから」
「次も生き残れるって」
酒を飲む。
「違った」
レインは息を詰める。
「ダンジョンって、そういう場所」
「昨日生きてても、今日死ぬ」
「才能あっても死ぬ」
「努力しても死ぬ」
「強くても死ぬ」
セレナは笑わなかった。
「だから私は、期待しないようにしてた」
「新人に」
「情が移るから」
レインは言葉を探す。
でも見つからない。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「辛い話を」
「話したの私」
セレナは肩をすくめた。
「酒入ると、少し緩む」
「珍しい」
「普段は話さないんですか」
「話しても意味ない」
レインは少し考えた。
「……意味、あります」
「聞いてる人いるから」
セレナが止まる。
静かにレインを見る。
「優しい」
「違います」
「違わない」
レインは視線を落とした。
褒められるのが苦手だった。
「……僕」
「はい」
「多分、あんまり人間として強くないです」
「知ってる」
「はい……」
「でも、弱い人間って」
レインはゆっくり言葉を探した。
「弱い人の痛み、分かる気がします」
雨音が続く。
セレナは黙っていた。
「怖いの、分かるし」
「逃げたいのも分かるし」
「役に立てない苦しさも分かる」
「だから」
レインは剣を見る。
「せめて、ちゃんと見たいです」
「誰かを」
セレナは静かに息を吐いた。
「……それ」
「結構難しい」
「そうなんですか」
「人って、自分のことで精一杯だから」
セレナはコップを揺らす。
「特に強い人間ほど」
「弱い側を見れなくなる」
「置いていく」
「死ぬの前提で動く」
レインはセレナを見る。
「セレナさんは違います」
「違わない」
「でも」
レインは小さく言う。
「ちゃんと待ってくれる」
セレナは少し黙った。
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……待たなかった結果」
「いっぱい見たから」
雨が強くなる。
窓を叩く音。
遠くで雷。
レインは酒をもう一口飲んだ。
今度は少しだけ慣れた。
「苦いです」
「大人の味」
「セレナさん、甘い物好きなのに」
「それ言う?」
「すみません」
「秘密」
「はい」
「言ったら斬る」
真顔だった。
レインは少し笑った。
セレナも少しだけ口元を緩める。
こんな時間が増えていた。
戦闘じゃない。
命懸けじゃない。
ただ、一緒に過ごす時間。
雨の音を聞いて。
食事して。
酒を飲んで。
昔話をして。
それだけ。
でも。
それが少しずつ積み重なっていく。
「……レイン」
「はい」
「あなた、多分」
「強くなる」
レインは固まった。
「え」
「時間かかる」
「遅い」
「不器用」
「身体も弱い」
「怖がり」
「でも」
セレナは真っ直ぐ言う。
「積む人間は変わる」
レインは胸が熱くなる。
そんな風に言われたことがない。
ずっと。
役に立たない人間だったから。
「……セレナさん」
「ん?」
「なんで、そこまで見てくれるんですか」
セレナは少し考えた。
酒を飲む。
窓の外を見る。
「分からない」
「でも」
「あなた見てると」
少しだけ笑う。
「昔の自分思い出す」
「……セレナさんが?」
「新人の頃は酷かった」
「信じられません」
「失礼」
レインは慌てる。
「すみません」
「でも、想像できないです」
「いっぱい吐いた」
「いっぱい泣いた」
「いっぱい死にかけた」
「今も怖い」
レインは驚いた。
「怖いんですか」
「当然」
セレナは即答した。
「怖くない人間、死ぬ」
その言葉は妙に現実的だった。
「怖いから確認する」
「怖いから鍛える」
「怖いから準備する」
「生き残る人間って、そういうもの」
レインはゆっくり頷いた。
少しだけ。
肩の力が抜けた気がした。
怖くてもいい。
震えてもいい。
吐いてもいい。
最後に逃げなければ。
その積み重ねで、生き残れるなら。
「……眠そう」
セレナが言う。
「少し」
「寝なさい」
「セレナさんは?」
「もう少し飲む」
「飲みすぎです」
「酒豪なので」
レインは苦笑した。
寝台へ向かう。
毛布に入る。
暖かい。
外はまだ雨。
セレナは窓際に座ったまま、酒を飲んでいた。
長い銀髪。
傷跡のある首筋。
強い女。
でも。
どこか壊れそうでもある。
「……セレナさん」
「なに」
「幸せになれないって」
「前に言ってましたけど」
「うん」
「そんなこと、ないと思います」
部屋が静かになった。
雨音だけが続く。
セレナはすぐに返事をしなかった。
やがて、小さく笑う。
「酔ってる?」
「少しだけ」
「じゃあ今だけ信じとく」
レインは安心したように目を閉じた。
焚き火の夜。
雨の宿。
酒と昔話。
誰にも見えない小さな時間が、ゆっくり二人の距離を変えていく。
恋はまだ名前になっていない。
でも確かに。
心のどこかで、静かに灯り始めていた。




