5:逃げ遅れた少年
夜のレグナードは冷えていた。
都市国家を囲む巨大外壁の上では、夜警の鐘が一定の間隔で鳴り続けている。遠くでは、魔物避けの篝火が赤く揺れ、冬の風が石畳を撫でていた。
冒険者ギルドの喧騒も、昼に比べればかなり静かだ。
酒場の奥では、酔った冒険者たちが今日の戦果を語り合っている。
誰が何階層まで潜った。
誰が希少鉱石を見つけた。
どこの商会が新しい保存食の流通を始めた。
レグナードでは、食と物流は命そのものだった。
ダンジョンがある以上、人は集まる。
人が集まれば、食料が動く。
食料が動けば、金が流れる。
その流れの上に、国家が立っていた。
そして、その巨大な流れの底辺にいるのが、レインだった。
「……」
ギルド裏手の水場。
レインは一人、剣を洗っていた。
安物の片手剣。
刃は欠け、柄も擦り減っている。
新人用の粗悪品。
今日の戦闘で付着したゴブリンの血を、冷たい水で流していく。
だが、血は落ちても感触が消えない。
肉を斬った感覚。
骨に引っかかった感触。
喉を裂くような悲鳴。
「……っ」
手が止まる。
震えていた。
レインは唇を噛む。
情けない。
ゴブリン三匹。
熟練冒険者なら笑って片付ける程度の相手だ。
それなのに、自分は死にかけた。
怖かった。
本当に。
逃げたかった。
腰が抜けそうだった。
それでも最後だけは逃げなかった。
逃げ遅れた、と言った方が正しいのかもしれない。
「……向いてない」
小さく呟く。
冷たい水が指先を流れていく。
その時だった。
「そんな顔で剣を洗っていると、武器が可哀想よ」
後ろから声がした。
レインの肩が大きく跳ねる。
振り返る。
そこにいたのはセリナだった。
銀髪が夜風に揺れている。
黒いロングコート。
長い脚。
背中に背負われた巨大な大剣。
酒瓶を片手に持ちながら、水場の壁へ寄りかかった。
相変わらず綺麗だった。
綺麗なのに、どこか疲れている。
そのアンバランスさが、妙に目に残る。
「……すみません」
「謝らなくていいわ」
セリナは淡々と答えた。
「新人が魔物を怖がるのは普通よ」
「でも、皆……普通に戦ってます」
「そう見えるだけ」
セリナは酒を一口飲む。
「怖くない人間なんていないわ」
レインは俯く。
信じられなかった。
この人ほど強い人でも、怖いと思うのか。
「今日は吐かなかったのね」
「……え」
「昨日は盛大だったでしょう」
少しだけ口元が緩む。
笑われているわけではない。
からかわれているだけだ。
レインは耳まで赤くなった。
「……すみません」
「だから謝らないの」
セリナは呆れたように言った。
その時、ギルドの正面から騒ぎ声が聞こえた。
「助けてくれ!」
叫び声。
複数人の足音。
レインとセリナが同時に振り返る。
冒険者たちが、誰かを抱えてギルドへ駆け込んできていた。
若い男だった。
血塗れだ。
足が半分潰れている。
「回復術師を呼べ!」
「ダンジョン二階層で群れに遭った!」
「荷物持ちが逃げ遅れたんだ!」
その言葉。
レインの身体が硬直する。
逃げ遅れた。
その響きだけで胸が冷える。
運ばれてきた若い冒険者は、まだ十代後半くらいだった。
顔が青い。
震えている。
「死にたくない……」
その声が、やけに耳に残った。
セリナが静かに歩き出す。
人混みが自然に割れる。
S級冒険者。
その存在感だけで空気が変わる。
「どいて」
短い一言。
セリナは負傷者の前に膝をついた。
潰れた足を見る。
「……骨までいってるわね」
回復術師が慌てて魔法を展開する。
淡い光。
光属性の癒し。
だが完全ではない。
足の損傷が酷すぎる。
「ひっ……」
若い冒険者が怯える。
セリナはその肩を押さえた。
「落ち着きなさい」
「で、でも……っ」
「死なない」
静かな声だった。
不思議と逆らえない声。
「呼吸を合わせなさい」
若い冒険者は必死に頷いた。
レインは離れた場所から、それを見ていた。
セリナは強い。
戦う時だけじゃない。
こういう時も。
ちゃんと人を見ている。
回復術師への指示も正確だった。
「血流を止めてから治癒」
「先に神経を繋いで」
「焦ると壊れる」
迷いがない。
どれだけ修羅場を見てきたのか、レインには想像もつかなかった。
しばらくして、若い冒険者は運ばれていった。
ギルドの空気が少し落ち着く。
セリナは立ち上がると、軽く息を吐いた。
その横顔が、ほんの少しだけ疲れて見えた。
「……知り合い、ですか」
レインは気づけば聞いていた。
セリナは少し黙る。
「昔の弟子に似てた」
「……」
「逃げ遅れて死んだ子」
レインの胸が詰まる。
セリナは平然としている。
でも、その言葉は軽くなかった。
「私は強いわ」
セリナは夜空を見る。
「でも、全員は助けられない」
その声は静かだった。
諦めではない。
現実だった。
レインは何も言えない。
言葉が見つからない。
「だから嫌なのよ」
セリナは苦く笑った。
「若い子が無茶するの」
レインは視線を落とす。
自分も、そう見えているのだろうか。
弱くて。
危なっかしくて。
すぐ死にそうな新人。
「……でも」
セリナがこちらを見る。
「あなたはまだ死んでない」
「……」
「怖がりながらでも戻ってきた」
レインの胸が熱くなる。
「それは立派よ」
真正面から言われる。
誤魔化しのない声で。
レインは困ってしまう。
褒められることに慣れていない。
「……運が良かっただけです」
「運だけで生き残れるほど、外は甘くないわ」
セリナはそう言うと、酒瓶を軽く振った。
「飲む?」
「……まだ無理です」
「そう」
少しだけ笑う。
その時だった。
ギルドの厨房の方から、香ばしい匂いが漂ってきた。
肉と野菜を煮込んだスープ。
焼き立てのパン。
夜食の時間らしい。
冒険者たちが一斉に席へ向かっていく。
セリナがレインを見る。
「食べるわよ」
「……え」
「今日は動いたでしょう」
「で、でも」
「痩せすぎ」
即答だった。
レインは少し傷つく。
セリナは気にしない。
「細い子は、すぐ倒れるの」
そう言って歩き出した。
レインは慌てて後を追う。
暖かなギルドの食堂。
木の椅子。
湯気の立つスープ。
騒がしい冒険者たち。
その中でセリナは自然に席へ座った。
レインも向かいに座る。
少し緊張する。
「食べなさい」
セリナはパンを押し付けるように渡した。
レインはおそるおそる受け取る。
温かかった。
スープを飲む。
塩気が身体に染みる。
冷え切っていた身体が少しずつ温まっていく。
「……美味しい」
「そうね」
セリナもスープを口に運ぶ。
静かな時間だった。
大きな会話はない。
でも、不思議と気まずくない。
レインは少しだけ思う。
こういう時間を、
また過ごしたい、と。
その感情が何なのかは、まだ分からない。
ただ。
死ぬほど怖かった今日の夜が、
少しだけ温かかった。




