46:朝稽古
朝はまだ暗かった。
空が白み始める前。
国家都市グランゼイルの外壁沿いには、冷たい風が流れている。
昨夜の雨が石畳に残っていた。
濡れた地面。
湿った土の匂い。
遠くで市場の準備を始める音がする。
商人たちは朝が早い。
食料を止めれば街は止まる。
パン屋は火を起こし、肉屋は解体を始め、荷馬車は街道へ向かう。
ダンジョン都市は、生きるために朝から動いていた。
その片隅で。
レインは木剣を握っていた。
「遅い」
セレナの声。
次の瞬間。
木剣が弾かれる。
「っ……!」
レインの身体が回転する。
転びそうになる。
なんとか踏み止まる。
「足」
「浮いてる」
「はい……!」
「視線」
「剣だけ見ない」
「……はい!」
息が白い。
身体が重い。
筋肉痛が消えていない。
昨日の戦いの疲労も残っていた。
それでも。
レインは剣を構え直す。
「来て」
セレナが言う。
長身。
銀髪。
朝焼け前の薄暗い空気の中で、その姿だけが妙に鮮明だった。
強い。
本当に強い。
隙がない。
レインは息を整える。
怖い。
それでも踏み込む。
「はぁっ!」
斬る。
鈍い。
遅い。
セレナは軽く受け流した。
「身体だけで振らない」
「腰」
「肩」
「足」
「全部繋ぐ」
彼女はレインの腕を掴む。
そのまま動きを修正した。
「こう」
「……っ」
近い。
銀髪が揺れる。
女性の匂い。
熱。
レインの顔が赤くなる。
「集中」
「……はい」
即座に見抜かれていた。
セレナは呆れたように小さく笑う。
「本当に分かりやすい」
「すみません……」
「謝らなくていい」
彼女は木剣を持ち直した。
「でも戦場でぼーっとすると死ぬ」
「……はい」
「色気で死ぬ冒険者、意外と多いのよ」
「……」
レインは返事に困った。
セレナは時々、こういうことを平然と言う。
下品じゃない。
でも妙に大人だった。
レインはまだ慣れない。
「もう一回」
「はい!」
踏み込む。
斬る。
受け流される。
蹴られる。
転ぶ。
立つ。
また踏み込む。
何度も。
何度も。
身体が悲鳴を上げる。
腕が痺れる。
握力が消える。
息が苦しい。
「止まらない」
セレナは淡々と言う。
「動けなくなるまでやる」
「……はい!」
レインは歯を食いしばる。
怖い。
苦しい。
逃げたい。
でも。
あの巨大魔物を思い出す。
血。
死体。
助けられなかった人たち。
そして。
セレナ一人で戦っていた背中。
「……っ!」
剣を振る。
セレナが少しだけ目を細めた。
「今のは悪くない」
「……!」
嬉しい。
たったそれだけで、胸が熱くなる。
「でもまだ弱い」
「はい」
「褒められて調子乗らない」
「……はい」
レインは少しだけ笑ってしまう。
セレナも小さく笑った。
その横顔を見て、レインは一瞬動きを止めた。
「集中」
「す、すみません!」
朝の訓練場に木剣の音が響く。
冒険者たちも少しずつ集まり始めていた。
「……あれセレナだろ?」
「また男育ててんのか」
「今度のは弱そうだな」
「死ぬんじゃね?」
笑い声。
視線。
レインの肩が強張る。
まだ慣れない。
見られるのが苦手だった。
セレナは気にしない。
「続ける」
「……はい」
彼女は本当に強い。
他人の視線に揺れない。
レインはそこにも憧れていた。
「レイン」
「はい」
「周り見る余裕ない時点で、まだ弱い」
「……」
「戦場だと、敵は前だけじゃない」
「横も」
「後ろも」
「空気も」
「全部見る」
セレナは木剣を肩へ乗せる。
「強い人ほど視野が広い」
「逆に弱い人は、自分しか見えない」
レインは黙って聞く。
「怖い時ほど周り見る」
「それが生き残るコツ」
「……はい」
彼は何度も頷いた。
覚えることが多い。
世界は思っていたより現実的だった。
才能だけじゃない。
根性だけでもない。
経験。
身体。
視野。
判断。
全部必要。
セレナはその全部を持っていた。
「休憩」
ようやく言われた時、レインはその場に座り込んだ。
「はぁ……っ……」
呼吸が荒い。
汗が滲む。
身体中が痛い。
セレナは水筒を投げる。
「飲む」
「ありがとうございます……」
冷たい水が喉を通る。
生き返るみたいだった。
セレナは隣へ座った。
距離が近い。
長い脚。
濡れた銀髪。
朝日が少しだけ差し込み始めている。
綺麗だった。
レインは視線を逸らす。
「……また見てる」
「っ」
「顔赤い」
「……すみません」
セレナは呆れたように笑う。
「謝る癖、直した方がいい」
「でも……」
「悪いことしてない時まで謝ると、自分を弱くする」
レインは少し黙る。
そんなこと考えたこともなかった。
「……セレナさんって」
「なに」
「教師みたいです」
「弟子死なせたことあるから」
空気が少し変わる。
レインは息を止めた。
セレナは前を見たまま話す。
「昔ね」
「若い子育ててた」
「才能あった」
「真っ直ぐだった」
「……」
「死んだ」
短い言葉。
でも重い。
「私が判断ミスした」
「助けられたかもしれない」
セレナは感情を押し殺した声で言う。
「それ以来、誰か育てるの嫌だった」
「……」
「死ぬから」
レインは何も言えなかった。
セレナは強い。
でも。
傷だらけだった。
身体だけじゃない。
心も。
「だから」
彼女はレインを見る。
「無理はさせない」
「死なせない」
「ちゃんと強くする」
レインの胸が熱くなる。
「……はい」
「返事だけはいい」
「すみません」
「また謝った」
セレナが笑う。
その笑顔は、少しだけ柔らかかった。
朝日が街を照らし始める。
市場が動く。
人が増える。
国家都市グランゼイルの一日が始まる。
冒険者たちはダンジョンへ向かい。
商人たちは物流を回し。
職人たちは武器を作り。
料理人たちは大量の食事を用意する。
強い街ほど、朝が早い。
生きるために。
止まらないために。
そしてレインもまた、その流れの中にいた。
まだ弱い。
まだ足りない。
それでも。
剣を握る。
怖くても。
震えても。
吐きそうでも。
隣へ立ちたいから。
あの強い背中へ、少しでも近づきたかった。




