45:無力感
雨だった。
朝から空は重く、灰色の雲が街全体を覆っている。
石畳は濡れ、荷車の車輪が水を跳ねた。
冒険者ギルド《黒狼の牙》の入口には、湿った外套を払う冒険者たちが集まっている。
巨大魔物討伐依頼。
街の空気は昨日より張り詰めていた。
レインは掲示板を見上げる。
赤紙。
高難度。
推定B級上位。
《暴食の大猪》討伐。
ダンジョン中層から地上付近へ上がってきた変異種。
農地を荒らし、街道を潰し、輸送隊を襲った。
すでに死者も出ている。
国家都市グランゼイルにとって、物流は命だった。
街道が止まれば、食料が止まる。
商人が止まる。
金が止まる。
都市は、簡単に腐る。
「食料価格、また上がるぞ」
「南区の肉屋、もう値段変えてた」
「農村側がびびって収穫止めてるらしい」
冒険者たちの会話が聞こえる。
現実だった。
魔物一体で、街は揺れる。
セレナは依頼書を剥がし、受付へ向かった。
「受ける」
受付嬢が息を呑む。
「……本気ですか、セレナさん」
「本気」
「他のS級と合同を――」
「時間がない」
静かな声だった。
それだけで空気が変わる。
周囲の冒険者たちが視線を向ける。
「《紅蓮の女帝》か……」
「久々に本気の討伐だな」
「死人出るぞ」
レインは黙っていた。
胸の奥が重い。
自分だけ、場違いだった。
周囲は強者ばかり。
筋肉。
傷跡。
歴戦。
自分だけ細い。
弱い。
頼りない。
「レイン」
「……はい」
「顔色悪い」
「大丈夫です」
「嘘」
セレナは即答した。
「吐きそうな顔してる」
「……」
図星だった。
巨大魔物討伐。
命のやり取り。
レインはまだ、人を守れるほど強くない。
それを理解している。
理解しているから怖い。
「怖い?」
セレナが聞く。
レインは少し迷ってから頷いた。
「……怖いです」
「そう」
彼女は否定しない。
「怖がれなくなったら終わり」
「……」
「恐怖は必要」
「死にたくないって感覚だから」
セレナは依頼受注の札を腰へ付けた。
「でも」
彼女はレインを見る。
「怖いまま立てる人は少ない」
レインは何も返せなかった。
その時だった。
ギルドの扉が乱暴に開く。
血だらけの男が飛び込んできた。
「た、助け……!」
ざわめくギルド。
冒険者たちが立ち上がる。
男は崩れるように床へ倒れた。
「輸送隊が……!」
「やられた……!」
「大猪が……街道に……!」
血。
泥。
恐怖。
それだけで状況が分かる。
間に合っていない。
もう被害が出ている。
セレナの目が変わった。
「場所は」
「北街道……第三橋付近……!」
「数は」
「一匹……でも……!」
男の身体が震える。
「護衛が……潰された……」
静寂。
空気が冷える。
レインの喉が渇いた。
想像してしまう。
死体。
血。
潰された人間。
胃が捻れる。
「行く」
セレナは迷わなかった。
巨大剣を背負う。
ギルドの空気が張る。
S級冒険者。
本物の戦士。
レインはその背中を見る。
遠い。
圧倒的だった。
自分とは違う生き物みたいだった。
「レイン」
「……はい」
「来る?」
試すような声ではない。
確認だった。
レインは唇を噛む。
怖い。
逃げたい。
胃が痛い。
足が震える。
でも。
「……行きます」
声は小さかった。
それでもセレナは頷く。
「なら準備して」
二人はギルドを出た。
雨が強くなる。
街道へ向かう途中、商人たちが荷車を避難させていた。
農民たちが怯えている。
兵士たちが動いている。
都市は戦っていた。
生きるために。
食を守るために。
物流を止めないために。
「国家って」
レインは小さく呟く。
「戦ってるんですね」
「毎日ね」
セレナは歩きながら答える。
「剣だけじゃない」
「食料も」
「金も」
「道も」
「全部戦場」
雨が彼女の銀髪を濡らす。
「強い国は、それを維持できる」
「弱い国は崩れる」
「魔物一匹で飢える場所もある」
レインは黙って聞いていた。
自分はまだ何も知らない。
強さも。
世界も。
現実も。
街道へ近づくにつれ、空気が変わる。
臭い。
血。
泥。
獣臭。
レインの胃が反応した。
「……っ」
吐き気。
足が止まる。
セレナが振り返る。
「無理?」
「……まだ」
レインは呼吸を整える。
「まだ、大丈夫です」
嘘だった。
でも立つ。
逃げない。
それだけは守る。
やがて見えた。
壊れた荷車。
潰れた馬。
散乱する荷。
血。
人の腕。
切断された脚。
冒険者の死体。
レインの思考が止まる。
「ぁ……」
身体が硬直した。
現実だった。
訓練じゃない。
物語じゃない。
本当に人が死ぬ。
「下がって」
セレナの声。
次の瞬間。
森が揺れた。
巨大だった。
三メートルを超える黒い巨体。
牙。
筋肉。
赤い眼。
《暴食の大猪》。
地面が揺れる。
咆哮。
レインの身体が震える。
恐怖。
本能。
死ぬ。
そう理解した。
大猪が突進する。
速い。
巨大なのに速い。
セレナが前へ出る。
火属性魔力。
赤熱。
超大型大剣が炎を纏う。
衝突。
轟音。
地面が砕けた。
セレナが止める。
真正面から。
「……っ!」
筋肉が膨張する。
火花。
熱風。
彼女一人で巨大魔物を押し返していた。
レインは動けない。
見ているだけ。
怖い。
速すぎる。
何もできない。
「レイン!」
セレナの叫び。
「右!」
反射的に動く。
次の瞬間、大猪の尾が地面を薙いだ。
レインは吹き飛ぶ。
「がっ……!」
転がる。
肺の空気が抜ける。
痛い。
息ができない。
立て。
立て。
頭では叫ぶ。
でも身体が動かない。
その間にもセレナは戦っている。
一人で。
圧倒的だった。
炎。
剣。
筋力。
戦闘技術。
全部が別格。
レインは理解してしまう。
自分はここにいない方がいい。
邪魔だ。
足手まといだ。
「……っ」
悔しい。
怖い。
情けない。
涙が出そうになる。
その瞬間。
大猪がセレナの横を抜けた。
一直線。
倒れている輸送隊の少女へ向かう。
まだ生きていた。
「っ!」
セレナは間に合わない。
距離。
角度。
ほんの一瞬。
レインの身体が動いた。
怖い。
震える。
でも。
走る。
「うあああああ!!」
水魔法。
暴発。
大量の水。
制御不能。
街道が洪水みたいに吹き飛ぶ。
大猪の突進が僅かに逸れる。
その隙。
セレナが飛んだ。
炎。
一閃。
巨大な首が落ちる。
沈黙。
雨音だけが残った。
レインは膝をつく。
呼吸が乱れる。
魔力酔い。
吐き気。
「っ……ぅ……」
吐いた。
泥の上に。
情けない。
惨めだった。
セレナが近づいてくる。
「……ごめんなさい」
レインは掠れた声で言う。
「何が」
「何も……できなくて……」
セレナはしばらく黙っていた。
雨が降る。
静かに。
「レイン」
「……」
「助けた」
「……え?」
「さっきの子」
「あなたが動かなかったら死んでた」
レインは呆然とする。
「でも僕」
「怖がってた」
「吐いた」
「震えてた」
「それでも動いた」
セレナはしゃがみ、レインの顔を見る。
「それ、簡単じゃない」
レインの目が揺れる。
「無力感は消えない」
「強くなっても消えない」
「私もある」
「……セレナさんが?」
「毎回ある」
彼女は静かに笑った。
「救えなかった顔、忘れないから」
その笑顔は少し寂しかった。
「だから人は強くなろうとする」
「無力なの、嫌だから」
レインは雨の中で俯く。
悔しい。
怖い。
でも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
前へ進めた気がした。




