43:身体が追いつかない
朝日が差し込む前の時間だった。
空はまだ青黒い。
街の灯りも半分ほどしか消えていない。
静かな早朝。
宿屋《白樺亭》の裏庭では、木剣が空気を裂く音だけが響いていた。
「……っ!」
レインは剣を振る。
踏み込む。
斬る。
戻す。
また振る。
汗が落ちる。
息が荒い。
腕が重い。
でも止まらない。
止まれなかった。
身体の中に残る“剣士の記憶”。
それが、逆にレインを焦らせていた。
頭では分かる。
動きが見える。
どこで力を入れるか。
どこで抜くか。
どう踏み込めば速いか。
分かる。
でも。
身体がついてこない。
「……はぁ……っ」
踏み込み。
その瞬間。
足がもつれる。
「っ!?」
転ぶ。
泥へ膝を打ちつけた。
鈍い痛み。
息が詰まる。
「……くそ」
レインは地面を睨む。
悔しかった。
頭では完璧に見えている。
なのに。
身体が弱すぎる。
筋力。
体幹。
持久力。
全部足りない。
「そんなに焦ると壊れるわよ」
声。
レインは肩を震わせた。
セリナだった。
黒い上着を羽織り、湯気の立つカップを持っている。
銀髪が朝の薄暗さの中でぼんやり光っていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
セリナはレインの前へしゃがみ込む。
膝を見る。
「腫れるわね、それ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
図星だった。
レインは視線を逸らす。
悔しくてたまらなかった。
「……分かるんです」
「うん」
「動きが」
「うん」
「でも身体が遅い」
レインは拳を握る。
「頭の中ではできてるのに」
「実際には全然できない」
「……気持ち悪いです」
セリナは少しだけ笑った。
「成長途中ってそんなもの」
「……」
「急に理解だけ増えると、余計につらい」
彼女は立ち上がる。
「立てる?」
「……はい」
レインはゆっくり立ち上がった。
膝が痛む。
情けない。
こんなことで。
「もう一回振って」
「……はい」
レインは剣を構える。
振る。
斬撃。
踏み込み。
でも途中で身体がぶれる。
「止め」
セリナが近づいた。
「腰」
「……え?」
「上半身だけで振ってる」
彼女はレインの腰へ軽く触れる。
「ここ使う」
「っ」
距離が近い。
レインの身体が硬直する。
「緊張しすぎ」
「……すみません」
「だから何考えてるの」
少し呆れた声。
でも怒っていない。
レインは顔を赤くする。
「……近いので」
一瞬。
セリナが目を丸くした。
その後、小さく笑った。
「真面目ね」
「……」
「変に慣れてるより安心する」
その言葉にレインの心臓が跳ねる。
「ほら」
セリナは腰を軽く押した。
「下半身から」
「……はい」
「肩の力抜く」
「……」
「呼吸」
レインは深く息を吸う。
振る。
空気が裂ける。
前より自然だった。
「今の」
セリナが頷く。
「いい」
レインは少し目を見開いた。
嬉しい。
たったそれだけで。
嬉しかった。
「もう一回」
「……はい」
繰り返す。
何度も。
何度も。
朝日が少しずつ昇っていく。
空が青く変わる。
鳥の声。
街のざわめき。
働く人々の音。
その中で。
レインはひたすら剣を振った。
だが。
一時間後。
「……っ」
限界が来た。
足が震える。
握力が抜ける。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
身体が追いつかない。
「……はぁ……っ、はぁ……っ」
膝をつく。
吐き気。
腕が痙攣している。
「今日はここまで」
セリナが言う。
「……まだ、できます」
「無理」
「……でも」
「身体壊す方が無駄」
レインは悔しそうに唇を噛む。
「……弱い」
「そうね」
セリナは否定しない。
「今は弱い」
「……」
「でも」
彼女はタオルをレインへ投げた。
「昨日よりマシ」
レインはタオルを受け取る。
「……本当ですか」
「本当」
セリナは壁にもたれた。
「足運びは良くなった」
「剣筋も少し安定した」
「身体が耐えられてないだけ」
「……」
「つまり、ちゃんと成長してる」
レインは黙る。
その言葉を噛み締める。
成長。
自分が。
本当に。
「……セリナさん」
「なに」
「昔から強かったんですか」
セリナは少しだけ空を見る。
「全然」
「……え?」
「弱かった」
意外だった。
「背だけ大きくて」
「力だけ強くて」
「剣は雑」
「怒鳴るし」
「突っ込むし」
「最悪だった」
レインは少し笑ってしまう。
想像できない。
「笑った」
「……すみません」
「いい」
セリナも少し笑う。
「でもね」
その表情が少しだけ遠くなる。
「強くなると」
「……」
「失うものも増える」
空気が変わった。
レインは黙る。
「仲間も」
「居場所も」
「普通の幸せも」
セリナは静かだった。
「強い人ってね」
「戦場に残るの」
「最後まで」
「……」
「だから、幸せになり損ねる」
レインは胸が痛くなる。
セリナは強い。
本当に強い。
でも。
どこかずっと疲れている。
一人で立ち続けた人の顔をしている。
「……でも」
レインは小さく言った。
「セリナさん、優しいです」
一瞬。
セリナが固まる。
「……急になに」
「本当なので」
レインは真っ直ぐ言った。
「怖い時、ちゃんと見てくれるし」
「放っていかないし」
「僕みたいなのにも、ちゃんと教えてくれる」
「……」
「優しいです」
沈黙。
朝の風が吹く。
銀髪が揺れた。
「……変な子」
セリナは苦笑した。
でも。
少しだけ頬が赤かった。
「普通ね」
「優しいって、もっと綺麗な人に使う言葉よ」
「……そんなことないです」
レインは本気だった。
セリナは少し視線を逸らす。
「……そういうの」
「はい?」
「不用意に言わない方がいい」
「……?」
「勘違いするから」
レインは意味が分からず首を傾げる。
セリナは深くため息を吐いた。
「本当に天然ね……」
「……?」
「なんでもない」
彼女は歩き出す。
「朝ご飯食べるわよ」
「今日は肉多め」
「筋肉足りないから」
「……はい」
レインは慌てて追いかける。
足はまだ震えていた。
身体は痛い。
全然追いつかない。
でも。
それでも。
少しずつ前へ進めている気がした。
隣を歩くセリナの背中は、まだ遠い。
圧倒的に強い。
綺麗で。
大人で。
戦場を生き抜いてきた人の背中だ。
でも。
その背中を追いかけたいと思った。
初めて。
本気で強くなりたいと思い始めていた。




