41:強奪
朝霧が街を覆っていた。
石畳は昨夜の雨をまだ残している。
早朝の市場では、野菜を積んだ荷車が軋み、焼きたての黒パンの匂いが漂っていた。
人々は動き始めている。
働く者の朝だ。
レインは宿屋《白樺亭》の裏庭で剣を振っていた。
汗が額を流れる。
呼吸は乱れている。
足は重い。
腕も痛い。
それでも止めなかった。
「三百二十七」
小さく数える。
素振り。
ただの素振りだ。
技術もない。
速さもない。
力もない。
でも。
止まれば、自分は本当に何もなくなる気がした。
巨大魔物討伐から数日。
街はまだ騒がしい。
討伐成功。
S級冒険者セリナの名声。
巨大種素材の高騰。
酒場では毎晩その話題ばかりだった。
レインの名前も少しだけ出る。
でも、それが逆につらかった。
「……役立った新人」
「セリナの加護付き」
「運が良かっただけ」
聞こえていた。
全部。
否定できない。
実際そうだから。
「三百二十八」
剣を振る。
腕が震える。
筋肉不足。
体力不足。
経験不足。
全部足りない。
それでも。
セリナの隣に立ちたいなら、やるしかなかった。
「朝から頑張るわね」
声。
レインは肩を震わせた。
振り返る。
セリナだった。
銀髪を後ろで束ね、軽装の黒シャツ姿。
朝日を受けた横顔が妙に綺麗だった。
「……お、おはようございます」
「おはよう」
セリナは裏庭の壁にもたれた。
腕を組む。
「何本目?」
「……三百二十八です」
「増えたわね」
レインは視線を逸らした。
「やらないと」
「うん」
セリナは否定しない。
「でも力みすぎ」
「……え?」
「肩」
レインは自分の肩を見る。
確かに硬い。
「怖がって振ってる」
その言葉に胸が詰まった。
見抜かれている。
「剣ってね」
セリナはゆっくり近づいた。
「怖いまま振ると、遅れるの」
レインの後ろに立つ。
距離が近い。
銀髪から微かに石鹸の匂いがした。
「肘、少し落として」
「……は、はい」
「肩の力抜く」
細い指がレインの肩へ触れる。
熱い。
体温が一気に上がる。
「呼吸止めない」
「……っ」
「吸って」
レインは慌てて息を吸う。
「そう」
セリナは自然だった。
教える側。
落ち着いている。
でもレインは落ち着けない。
心臓がうるさい。
「もう一回」
「……はい」
剣を振る。
風を切る音。
さっきより軽い。
「今の方がいい」
「……」
「怖いなら怖いままでいい」
セリナは言った。
「消そうとしなくていい」
レインは剣を下ろした。
「……セリナさんは」
「なに」
「怖くないんですか」
沈黙。
少しだけ風が吹いた。
「怖いわよ」
意外だった。
レインは目を見開く。
「今でも?」
「今でも」
セリナは笑う。
小さい笑み。
「死ぬの怖いし」
「仲間失うのも嫌」
「失敗も怖い」
「じゃあ、どうして……」
「慣れただけ」
その言葉は軽かった。
でも。
重かった。
「怖いまま動くことに慣れた」
レインは黙る。
自分はまだ。
怖いだけだ。
動けなくなる。
吐きそうになる。
足が止まる。
「だから訓練するの」
セリナは剣を見る。
「身体に覚えさせる」
「……」
「怖くても動けるように」
レインはゆっくり頷いた。
「はい」
その時だった。
表通りから怒鳴り声が聞こえた。
「おい待て!」
「逃がすな!」
騒音。
人々のざわめき。
レインとセリナは同時に顔を上げた。
「……行くわよ」
セリナが走る。
レインも慌てて追う。
表通り。
人混み。
市場が騒然としていた。
一人の男が荷袋を抱えて走っている。
痩せた男だ。
目が血走っている。
盗賊崩れ。
レインは直感した。
「食料盗まれた!」
商人が叫ぶ。
男は人を突き飛ばしながら逃げる。
「止まりなさい」
セリナの声。
低い。
圧がある。
男が振り返る。
顔色が変わった。
「S級……!」
逃げる方向を変える。
細い路地へ。
セリナが追う。
レインも走った。
息が切れる。
脚が重い。
でも止まれない。
路地裏。
湿った石壁。
ゴミと泥。
男は袋を抱えたまま短剣を抜いた。
「来るな!」
錯乱している。
「腹減ってんだよ!」
目が危ない。
追い詰められた目。
セリナは止まった。
「袋置いて」
「うるせぇ!」
男が短剣を振る。
雑。
素人に近い。
でも。
人は死ぬ。
セリナなら一瞬で終わる。
レインにも分かる。
でも。
その瞬間。
レインの鑑定が反応した。
【対象:ガルド】
【状態:栄養失調】
【スキル:短剣術Lv1】
【固有:魔力操作Lv2】
レインの目が止まる。
魔力操作。
「……っ」
胸の奥。
何かが疼いた。
熱。
飢え。
本能みたいな感覚。
欲しい。
それを。
奪いたい。
レインは息を呑む。
「……え」
気持ち悪い感覚だった。
頭の奥で何かが開く。
黒い穴。
吸い込む感覚。
男が叫びながら飛び込んできた。
「死ねぇ!」
レインの身体が動く。
怖い。
震える。
それでも前に出た。
「っ!」
剣で受ける。
重い。
腕が痺れる。
押される。
男の顔が近い。
汗。
息。
殺意。
怖い。
怖い。
怖い。
でも。
その瞬間。
レインの右手が男の腕を掴んだ。
「……え?」
男が固まる。
同時に。
黒い魔力が走った。
「がっ!?」
男の身体から何かが引き抜かれる。
光。
熱。
感覚。
レインの中へ流れ込む。
頭痛。
吐き気。
情報。
身体の動かし方。
魔力の流し方。
刃の捌き。
知らない感覚が流れ込んでくる。
「ぁ……ッ!」
レインは膝をついた。
吐く。
胃液が地面へ落ちた。
頭が割れそうだった。
「レイン!」
セリナが駆け寄る。
男はその場で倒れていた。
気絶している。
レインは震えていた。
寒い。
熱い。
気持ち悪い。
「……な、に」
自分でも分からない。
ただ。
理解だけはできた。
今。
奪った。
スキルを。
「……」
セリナが男を見る。
次にレインを見る。
鋭い目だった。
S級の目。
見逃さない目。
「……今、何したの」
レインは答えられない。
呼吸が乱れる。
怖い。
自分が。
怖かった。
セリナはしばらく黙っていた。
やがて。
ゆっくりしゃがみ込む。
震えるレインの前へ。
「立てる?」
責めない。
まずそこだった。
レインは目を見開く。
「……怖い、です」
震えた声。
「うん」
「僕……今」
「うん」
「……奪いました」
セリナは少しだけ目を細めた。
でも。
嫌悪はなかった。
「なら」
彼女は静かに言った。
「ちゃんと考えなさい」
「……」
「その力を、何のために使うのか」
レインは震えながら顔を上げる。
セリナの銀色の瞳。
強い。
でも。
逃げない目だった。
「力ってね」
彼女は続ける。
「綺麗なものじゃない」
「……」
「特に、奪う力は」
雨上がりの風が吹く。
路地の空気が少し冷えた。
「でも」
セリナはレインへ手を伸ばした。
「あなたが怖がれてるなら、まだ大丈夫」
その手を。
レインは震えながら掴んだ。
温かかった。




