38:足を引っ張る
翌朝。
空気は冷たかった。
廃村の屋根には白い霧が薄くかかり、夜露を吸った土が鈍く湿っている。
討伐隊は夜明け前から動き始めていた。
鎧の金具を締める音。
剣を抜いて確かめる音。
短い確認。
低い会話。
誰も大声を出さない。
巨大種討伐の日の朝は、妙に静かだ。
レインは焚き火の残り火の前で座り込んでいた。
眠れなかった。
胃が痛い。
心臓がうるさい。
喉も乾いている。
吐き気は昨日より酷かった。
「食べなさい」
セリナが木椀を差し出した。
湯気の立つ麦粥。
乾燥肉を細かく刻んで入れてある。
「……はい」
レインは受け取る。
熱かった。
少しだけ安心する。
「全部食べる」
「……あまり入らなくて」
「入れて」
静かな口調だった。
でも譲らない。
レインは小さく頷き、無理やり胃へ流し込む。
味は薄い。
それでも温かい。
「水も飲む」
「はい」
「吐いてもいいから飲む」
その言葉に、レインは少しだけ目を伏せた。
もう見抜かれている。
自分が限界近いこと。
怖がっていること。
弱いこと。
「……すみません」
「だから謝らなくていい」
セリナは自分の分の黒パンを齧る。
長い脚を組み、壁に背を預ける姿は、朝の薄明かりの中でも妙に絵になっていた。
強い。
綺麗だ。
遠い。
レインはその横顔を見るたびに、自分との差を思い知る。
その時。
「出るぞ」
ガルムの声が響いた。
隊員たちが立ち上がる。
空気が変わる。
戦闘前の空気。
重く。
乾いていて。
張り詰めている。
旧坑道入口は山肌にぽっかり開いていた。
巨大な黒穴。
崩れた木材。
古い線路跡。
湿った空気。
腐臭。
そして。
嫌な魔力。
レインは入口を見た瞬間、背筋が冷えた。
怖い。
本能が嫌がっている。
「レイン」
「っ、はい」
「呼吸」
セリナが短く言う。
「吸って」
レインは慌てて息を吸う。
「吐いて」
ゆっくり吐く。
「もう一回」
少しだけ震えが収まる。
「……ありがとうございます」
「慣れよ」
セリナはそう言って前を見る。
「恐怖は消えない」
「付き合い方を覚えるだけ」
討伐隊が坑道へ入っていく。
前衛。
盾役。
中衛。
後衛。
最後尾警戒。
レインは中央付近。
セリナのすぐ後ろだった。
坑道内部は暗かった。
水滴の音。
湿気。
岩肌。
古い木材。
空気が重い。
レインは震える指で小さな光球を作った。
光属性。
まだ弱い。
揺れる。
不安定。
でも何とか照らせる。
セリナが少しだけ振り返る。
「上出来」
たったそれだけで胸が熱くなる。
情けないと思う。
でも嬉しかった。
進む。
進む。
坑道は広かった。
昔は本当に鉱山だったらしい。
ところどころに掘削跡がある。
だが今は違う。
魔物の巣だ。
最初の接敵は一層目だった。
「来るぞ」
前衛が低く言う。
次の瞬間。
闇の奥から這い出してきた。
《ロッククロウラー》。
岩殻を纏った大型虫型魔物。
人間ほどの大きさ。
硬い。
速い。
気味が悪い。
レインは見た瞬間、息が止まりそうになった。
怖い。
気持ち悪い。
脚。
牙。
音。
全部無理だった。
「前衛!」
ガルムが叫ぶ。
斧が振り下ろされる。
衝突音。
火花。
虫が跳ねる。
別個体が壁を走った。
「右!」
リオの矢が飛ぶ。
眼を射抜く。
セリナが踏み込む。
一瞬だった。
超大型大剣が赤熱する。
火属性強化。
空気が揺れる。
次の瞬間。
巨大な斬撃。
ロッククロウラーがまとめて両断された。
強い。
圧倒的だった。
レインは見惚れそうになる。
その時。
「後ろ!」
誰かが叫んだ。
レインが振り向く。
いた。
一体。
岩陰。
接近。
速い。
レインの頭が真っ白になる。
動けない。
身体が硬直する。
怖い。
無理。
死ぬ。
「っ!」
咄嗟に剣を抜く。
でも遅い。
間に合わない。
次の瞬間。
炎が走った。
轟音。
熱。
ロッククロウラーが吹き飛ぶ。
セリナだった。
「レイン!」
「は……はい……!」
「後ろ確認!」
「す、すみません……!」
声が震える。
情けない。
完全に反応が遅れた。
皆の動きが止まっていた。
空気が重い。
「何やってんだ新人!」
前衛の一人が怒鳴る。
「後衛抜けられたら終わりだぞ!」
「……っ」
レインは何も言えない。
正しい。
全部正しい。
「だから新人連れは嫌なんだ」
別の男が舌打ちする。
胸が痛い。
胃が捻れる。
息苦しい。
怖い。
申し訳ない。
消えたい。
「もういい」
セリナが低く言った。
空気が少し凍る。
「進む」
「でもよ」
「今ので死んでない」
静かな声。
「なら次を防ぐ」
「……」
「責めて動けなくなる方が損」
誰も何も言わなかった。
でも視線は痛い。
レインは俯いたまま歩く。
最低だ。
役に立たない。
足を引っ張ってる。
自分でも分かっている。
二層目へ降りる途中。
レインの足はどんどん重くなった。
呼吸も浅い。
考えるほど怖くなる。
またミスする。
また迷惑をかける。
また守られる。
嫌だった。
でも。
怖い。
「レイン」
セリナが歩きながら声をかける。
「……はい」
「今、何考えてる」
「……足引っ張ってるって」
「そう」
「……はい」
「実際、引っ張ってる」
レインの胸が止まりそうになる。
でもセリナは続けた。
「新人だから」
「……」
「最初から完璧なら怖い」
少しだけ視線を向ける。
「私は新人の頃、味方ごと吹き飛ばしかけた」
「え」
「三回」
レインは思わず顔を上げた。
セリナは平然としている。
「一回は本当に重傷」
「……」
「怒鳴られた」
「……」
「泣いた」
少しだけ笑う。
「だから大丈夫」
レインは言葉を失う。
「ミスしない奴なんていない」
「でも」
「次を覚える」
「……」
「怖いなら確認する」
「動けないなら声を出す」
「無理なら頼る」
セリナは前を見たまま言った。
「一人で全部やろうとしない」
レインは小さく息を呑む。
「……でも」
「うん」
「守られてばっかりです」
その言葉は、自分でも驚くほど苦しかった。
セリナは少しだけ黙った。
それから。
「守られるの、そんなに嫌?」
レインは返事できない。
嫌だ。
でも。
本当は違う。
守られること自体じゃない。
守られるだけなのが嫌なんだ。
「……隣に立ちたいです」
気づけば口に出ていた。
セリナが少しだけ目を見開く。
「……役に立ちたい」
声が震える。
「守られるだけ、嫌です」
静かな沈黙。
坑道の水滴音だけが響く。
そして。
セリナは小さく笑った。
本当に小さく。
優しく。
「なら前に進みなさい」
「……」
「怖くても」
「失敗しても」
「吐いても」
「震えても」
真っ直ぐな声。
「立ち止まらないなら、それでいい」
レインの胸が熱くなる。
情けなくて。
苦しくて。
でも少しだけ救われる。
その時。
前方から怒号が響いた。
「接敵!」
空気が変わる。
重い振動。
岩が揺れる。
奥から何かが来る。
巨大な。
圧倒的な。
怪物の気配。
レインの身体が震えた。
怖い。
本当に怖い。
でも。
それでも。
彼は剣を握り直した。




