35:冒険者の朝
朝は、痛みから始まった。
目を開ける前から、全身が軋んでいる。
腕。
肩。
背中。
脚。
昨日の第三層。
影狼との戦闘。
吸収した魔力の暴走。
その全部が、体の奥に残っていた。
レインは狭い宿のベッドで小さく息を吐いた。
窓の外はまだ薄暗い。
雨だった。
細かい雨粒が窓を叩いている。
グランゼルの朝は冷たい。
迷宮都市は夜でも人が消えない。
遠くから荷車の音が聞こえる。
酒場帰りの笑い声。
徹夜明けの冒険者。
鍛冶屋の槌音。
誰かが死んでも。
誰かが生き残っても。
街は止まらない。
レインはゆっくり起き上がった。
「っ……」
脇腹が痛む。
昨日、影狼に掠められた場所だ。
包帯は綺麗に巻き直されている。
セリナだ。
昨夜、自分が気絶しかけた後、無言で処置してくれていた。
傷薬の匂いがまだ残っている。
レインは包帯を軽く触った。
少し熱い。
でも、痛みは昨日よりましだった。
小さな机には、水差しと木皿が置かれていた。
皿の上には黒パン。
干し肉。
そして小さな紙。
『食べてから降りてきなさい』
綺麗な字だった。
レインは少しだけ目を細める。
昨日のセリナは疲れていた。
迷宮から戻ってきた後も、ずっとレインの熱を見ていた。
なのに。
先に起きている。
この人は、本当に寝ているのだろうかと思う。
レインは静かにパンを齧った。
硬い。
でも温かかった。
少しだけ焼き直してある。
たぶん、セリナが。
胸の奥が落ち着かなくなる。
こういう優しさに慣れていない。
何か返したい。
でも何を返せるのか分からない。
自分は弱い。
金もない。
実力もない。
隣に立つどころか、守られてばかりだ。
パンを飲み込む。
考えすぎると胃が痛くなる。
レインは水を飲み、ゆっくり部屋を出た。
一階へ降りる。
朝の宿屋は静かだった。
まだ客は少ない。
暖炉の火が小さく燃えている。
雨の日特有の湿った匂い。
厨房からはスープの香りが漂っていた。
玉ねぎ。
肉。
香草。
腹が鳴りそうになる。
セリナは窓際の席に座っていた。
銀髪を下ろしている。
珍しく鎧ではなく、黒いシャツ姿だった。
長い脚を組み、帳簿を見ている。
妙に色気がある。
宿屋の娘がちらちら見ているのも分かった。
レインは少し視線を逸らした。
「おはようございます」
「おはよう」
セリナは顔を上げる。
その視線がレインの顔を確認した。
「熱は?」
「下がりました」
「吐き気」
「少しだけ」
「まだあるのね」
セリナは椅子を軽く引く。
「座りなさい」
「はい」
レインは向かいに座った。
するとすぐに厨房から湯気の立つ皿が出てくる。
肉と野菜の煮込み。
白パン。
卵。
温かいスープ。
「……豪華ですね」
「今日は私が払う」
「いや、でも」
「食べなさい」
有無を言わせない声だった。
レインは素直に従う。
温かい。
体に染みる。
迷宮都市では、食事は生命線だ。
弱い冒険者ほど食事を削る。
金がないから。
回復薬を優先するから。
でもセリナは、そこを絶対に妥協しない。
『死ぬ奴は大体、食事と睡眠を舐めてる』
以前そう言っていた。
セリナは酒を飲む。
甘い物も食べる。
でも、食う時はちゃんと食う。
生きるために。
レインはスープを飲みながら小さく言った。
「……美味しいです」
「そう」
セリナは少し口元を緩める。
その顔を見て、レインは少しだけ安心した。
昨日、かなり無茶をした。
呆れられたかもしれないと思っていた。
嫌われたかもしれないと思っていた。
でも。
セリナは普通にここにいる。
「今日は休みますか?」
レインが聞く。
セリナは首を横に振った。
「午前だけ市場行く」
「市場?」
「食料補充」
「あと防具屋」
レインは少し首を傾げる。
「防具……?」
「あなたの装備、薄すぎる」
即答だった。
「第三層であれは危ない」
「……お金」
「出世払い」
「そんな……」
「死なれる方が困る」
レインは言葉に詰まった。
セリナは本気でそう言っている。
重い。
でも優しい。
それが分かるから余計に困る。
朝食を終える。
外へ出る。
雨はまだ続いていた。
石畳が濡れている。
市場通りには屋根付きの露店が並び始めていた。
野菜。
肉。
香辛料。
干物。
迷宮素材。
グランゼルは巨大都市だ。
ダンジョンが金を生む。
金が人を呼ぶ。
人が街を大きくする。
その循環で成り立っている。
「こっち」
セリナが先を歩く。
長身。
長い脚。
濡れた銀髪。
通行人が自然と道を空ける。
強者の空気がある。
レインはその後ろを歩いた。
少しだけ距離を空けて。
人混みが怖い。
視線が怖い。
でも。
「離れすぎ」
セリナが振り返る。
「は、はい」
「迷子になる」
「子供じゃないです」
「ならもっと堂々と歩く」
レインは少しだけ姿勢を直した。
すると脇腹が痛む。
「っ……」
「無理しない」
セリナの声が少し柔らかくなる。
「今日は歩くだけでいい」
二人は市場を回った。
干し肉。
保存食。
薬草。
火石。
ロープ。
迷宮では消耗品が命になる。
レインは初めて、冒険者という仕事の現実を少し理解し始めていた。
戦うだけじゃない。
準備。
管理。
食事。
睡眠。
全部が生存率に直結する。
セリナが生き残ってきた理由が少し分かる。
強いだけじゃない。
徹底している。
防具屋に入る。
店内には革鎧や金属鎧が並んでいた。
店主がセリナを見るなり顔を上げる。
「おお、《紅蓮姫》」
「久しぶり」
「今日は?」
「新人用」
店主の目がレインへ向く。
一瞬で値踏みされる。
レインは少し縮こまった。
「……こいつか?」
「そう」
「細いな」
「知ってる」
セリナは即答する。
店主は苦笑した。
「第三層行ったって聞いたぞ」
レインの肩が震える。
噂が早い。
「生きて帰っただけ上等」
店主は棚から軽鎧を取り出した。
「これなら動きやすい」
レインは値札を見て青ざめる。
高い。
新人には無理だ。
「……買えません」
「私が払う」
「でも」
「何回言わせるの」
セリナは少し呆れたように息を吐く。
「死なれると困る」
「……」
「あと」
彼女は少し視線を逸らした。
「隣歩くなら、もう少しまともな格好しなさい」
レインは固まった。
顔が熱くなる。
意味を理解するのに少し時間がかかった。
セリナはそれ以上何も言わない。
店主だけがニヤニヤしていた。
「……若いなぁ」
「黙って売れ」
「はいはい」
レインは何も言えなかった。
外へ出る。
雨は少し弱くなっていた。
灰色の空。
湿った風。
セリナは荷物を肩にかけ直す。
「帰る?」
「はい」
二人は宿へ戻る。
並んで歩く。
周囲から見れば釣り合わない。
最強の女冒険者。
弱くて頼りない新人。
実際、その通りだった。
でも。
レインは少しだけ前より歩幅を合わせられるようになっていた。
セリナも、少しだけ歩く速度を落としていた。
冒険者の朝は忙しい。
生きるために準備する。
食べる。
眠る。
装備を整える。
その繰り返し。
派手じゃない。
英雄でもない。
でも。
そういう時間を重ねた先にしか、生き残る未来はなかった。
そして。
レインはまだ知らない。
この静かな朝の積み重ねが。
いつか自分を、本当に強くしていくことを。




