29:笑った横顔
地下迷宮第三階層。
湿った石壁に、水滴が静かに落ちていた。
薄暗い通路。
青白い魔鉱石の灯り。
冷えた空気。
レインは呼吸を整えながら歩いていた。
前を行くのはセリナ。
銀髪が揺れる。
長い脚。
大剣。
相変わらず強い背中だった。
でも。
前ほど遠く感じなかった。
「足音」
セリナが小さく言う。
レインが止まる。
耳を澄ます。
奥。
複数。
擦る音。
低い唸り。
「三体」
レインが小声で言った。
セリナが少しだけ目を向ける。
「分かる?」
「……なんとなく」
以前なら何も見えていなかった。
恐怖で全部潰れていた。
でも今は少し違う。
怖いまま。
震えたまま。
それでも周囲を見る余裕が生まれている。
セリナは小さく頷いた。
「いい」
短い言葉。
でもレインの胸が熱くなる。
「来る」
次の瞬間。
通路の奥から飛び出した。
ガルム。
三体。
灰色の毛並み。
鋭い牙。
唾液。
低い唸り声。
怖い。
身体が反射的に強張る。
でも。
「下がりすぎない!」
「っ……!」
セリナの声。
レインは踏み止まった。
逃げない。
視線を切らない。
一体目が飛び込む。
セリナの斬撃。
火花。
爆音。
ガルムの身体が吹き飛ぶ。
二体目。
レインが反応する。
怖い。
でも。
昨日より見える。
脚。
牙。
飛び込む軌道。
「そこ……!」
横へ避ける。
剣を振る。
浅い。
でも目を潰した。
ガルムが悲鳴を上げる。
その隙をセリナが断ち切る。
最後の一体。
背後。
「レイン!」
反射的に振り返る。
近い。
牙。
怖い。
身体が止まりかける。
その瞬間。
レインの奥で魔力が揺れた。
熱。
膨大な力。
暴れようとする濁流。
「っ……!」
怖い。
また壊す。
また暴走する。
脳裏に宿の崩壊がよぎる。
だが。
「落ち着いて」
セリナの声。
近い。
「呼吸」
吸う。
吐く。
暴れる魔力を押さえる。
「少しだけ流す」
レインは震える手を前へ出した。
怖い。
でも。
逃げない。
指先へ魔力を集める。
水。
形成。
小さな水弾。
不格好。
弱い。
それでも放つ。
水弾がガルムの顔へ当たった。
一瞬視界が塞がれる。
「今!」
セリナが飛ぶ。
大剣が閃く。
轟音。
最後のガルムが崩れ落ちた。
静寂。
レインはその場へ膝をついた。
呼吸が荒い。
心臓が痛い。
怖かった。
本当に。
でも。
「……できた」
小さく呟く。
セリナが近づいた。
「初めてにしては上出来」
「……水弾、小さかったです」
「当たればいい」
セリナは即答した。
「最初から完璧な奴なんかいない」
レインは少しだけ笑った。
その顔を見て、セリナの胸が妙に静かになる。
最近。
レインは少しずつ笑うようになった。
ほんの少しだけ。
本当に小さい変化。
でもセリナは気づいている。
最初の頃は、笑うこと自体を忘れていた。
生きることを諦めていた顔だった。
今は違う。
まだ弱い。
まだ怖がっている。
でも前を向こうとしている。
それが嬉しかった。
「少し休憩」
セリナが壁へ寄りかかる。
レインも座り込んだ。
地下迷宮は冷える。
湿った空気が肌へ張りつく。
レインは水筒を取り出した。
「飲みますか」
「もらう」
自然なやり取り。
前なら緊張で手が震えていた。
今も少し震える。
でも以前ほどではない。
セリナが水を飲む。
喉が動く。
長い睫毛。
横顔。
綺麗だと思った。
不意に。
セリナが小さく笑った。
本当に小さく。
静かな笑み。
レインは固まった。
「……え」
「なに」
「い、今」
「?」
「笑いました?」
セリナが少し眉を上げる。
「笑うくらいする」
「いや、その……」
レインが視線を泳がせる。
「初めて見た気がして」
セリナは少し黙った。
自分でも気づいていなかった。
最近。
レインといると自然に笑っている。
気を張らなくていい。
強くいなくていい。
それが少し不思議だった。
「……変?」
「ち、違います!」
レインが慌てる。
「すごく綺麗で」
言った瞬間。
空気が止まった。
レインの顔が一瞬で赤くなる。
「ち、違っ……いや違わないんですけど……!」
何を言っているのか自分でも分からない。
セリナがじっと見てくる。
レインは死にそうになった。
「す、すみません……」
「また謝る」
セリナが少し呆れたように息を吐く。
でも。
嫌ではなかった。
むしろ胸の奥が妙に熱い。
綺麗。
真正面からそんなことを言われるのは久しぶりだった。
しかも。
打算も下心もない。
レインは本当に思ったことをそのまま言っている。
だから困る。
強い女として見られることには慣れている。
恐れられることにも。
利用されることにも。
でも。
女として見られることには慣れていなかった。
「……レイン」
「は、はい」
「そういうの、あんまり簡単に言わない」
「……すみません」
「本当に癖ね」
セリナは少し笑った。
レインはさらに顔を赤くする。
地下迷宮なのに妙に静かな空気だった。
その時。
通路の奥から悲鳴が聞こえた。
二人の表情が変わる。
「助けてくれ!」
男の声。
慌てた足音。
血の匂い。
セリナが即座に立ち上がった。
「行く」
「はい!」
二人は走る。
角を曲がる。
そこには三人組の冒険者がいた。
一人は脚を怪我している。
そして。
巨大な魔物。
黒甲殻。
鋭い鎌。
迷宮蟲。
通常第三階層には出ない個体だった。
「なんでこんなのが……!」
冒険者が青ざめる。
迷宮蟲が動く。
速い。
セリナが前へ出た。
「レイン!」
「はい!」
「怪我人見て!」
レインは即座に走った。
怖い。
でも動ける。
以前なら足が止まっていた。
今は違う。
傷を見る。
深い裂傷。
出血。
「止血します!」
水魔法。
形成。
冷却。
圧迫。
まだ拙い。
でも動いている。
冒険者が目を見開いた。
「新人か……?」
「喋らないでください!」
レインが珍しく強く言った。
その間。
後方では轟音が響いていた。
セリナ。
炎。
大剣。
暴力的な強さ。
迷宮蟲の外殻を真正面から叩き割っていく。
レインは思う。
綺麗だ。
怖いくらいに。
そして。
隣に立ちたい。
本気でそう思った。
守られるだけじゃなく。
支えられるだけじゃなく。
この人の隣へ行きたい。
その感情が。
少しずつ。
レインの中で形になり始めていた。




