27:訓練開始
朝の空気は冷えていた。
迷宮都市アルディアの外壁、その東側。
冒険者たちが簡易訓練場として使う荒地には、まだ朝霧が薄く残っている。
砂混じりの土。
木製の標的。
砕けた岩。
古い血の跡。
ここは綺麗な場所ではない。
生き残るための場所だ。
レインは木剣を握っていた。
手が震えている。
朝だからではない。
目の前に立つ女が怖いからだ。
セリナ。
銀髪を後ろで軽く束ね、黒い訓練服を着ている。
いつもの大剣は背負っていない。
それでも威圧感がある。
強い人間は、武器がなくても強い。
「構えて」
「……はい」
レインは慌てて木剣を上げた。
ぎこちない。
足が固い。
肩に力が入っている。
自分でも分かるほど酷い構えだった。
セリナは腕を組んで見ている。
「まず確認」
「はい」
「レイン、剣の才能はない」
朝一番から容赦がない。
レインの顔が少し曇る。
「……はい」
「でも、絶望するほどでもない」
「え」
「普通」
セリナは淡々と言った。
「冒険者の大半はそんなもの」
レインは少しだけ目を瞬く。
天才ではない。
でも完全な無能でもない。
それだけで、少しだけ救われる。
「問題は」
セリナが近づく。
「怖がりすぎ」
「っ」
図星だった。
「肩に力入りすぎ。視野狭い。呼吸浅い。足止まる」
「……すみません」
「謝らなくていい」
最近何度も言われている。
それでも癖は抜けない。
セリナは木剣を持ち上げた。
「来て」
「え」
「打ち込む」
「む、無理です」
「無理でもやる」
セリナが構える。
綺麗だった。
無駄がない。
ただ立っているだけなのに隙がない。
レインは喉を鳴らした。
怖い。
本当に怖い。
でも。
逃げたくない。
木剣を握り直す。
踏み込む。
「は、ぁっ!」
遅い。
浅い。
迷いだらけの斬撃。
セリナが軽く弾いた。
次の瞬間。
視界が回る。
レインは地面に転がっていた。
「っ……!」
「今、何考えてた」
「……当てなきゃって」
「違う」
セリナが近づく。
「死なないことを考える」
レインは息を整えながら見上げた。
「当てるのはそのあと」
その言葉には重みがあった。
きっと。
何度も死線を越えた人間の言葉だ。
「立って」
「……はい」
また構える。
打ち込む。
転がされる。
立つ。
また転がされる。
砂だらけになる。
手が痛い。
腕が痺れる。
呼吸が乱れる。
それでもセリナは止めない。
「遅い」
「はいっ!」
「足が死んでる」
「はい!」
「視線下げない」
「……はい!」
訓練は厳しかった。
でも怒鳴り散らすタイプではない。
ちゃんと見ている。
何が悪いか。
どう直すか。
セリナは全部理解した上で言葉を投げてくる。
だからレインも必死についていった。
一時間後。
レインは地面に倒れていた。
汗が酷い。
肺が焼ける。
腕が上がらない。
「……死ぬ」
「まだ死なない」
セリナが水筒を投げる。
レインは慌てて受け取った。
「飲んで」
「ありがとうございます……」
水が身体に染みる。
生き返る。
セリナは岩に腰掛けていた。
朝日が銀髪を照らしている。
綺麗だった。
強い。
遠い。
なのに。
最近少しだけ近い。
「……なんで」
レインがぽつりと呟く。
「なに」
「なんで、ここまでしてくれるんですか」
セリナは少し黙った。
風が吹く。
訓練場の端では他の冒険者たちも鍛錬を始めていた。
「若いのが死ぬの嫌いだから」
静かな声だった。
「……それだけですか」
「それだけで十分」
セリナは前を見たまま言う。
「才能ある子が無駄に死ぬの、何回も見てきた」
レインは黙る。
「強くなれる子だった」
「もっと生きられた子だった」
「焦って、無理して、死んだ」
セリナの目は少し遠い。
「弟子も」
その一言だけで十分だった。
空気が少し重くなる。
レインは何も聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
「……だから」
セリナがこちらを見る。
「レインには死んでほしくない」
心臓が跳ねた。
真っ直ぐな言葉だった。
飾らない。
嘘もない。
だから重い。
レインは視線を逸らした。
顔が熱い。
嬉しい。
でも。
怖い。
期待されるのが怖い。
「僕、弱いです」
「知ってる」
「気持ち悪いし」
「それも知ってる」
「怖がってばっかりで」
「見れば分かる」
「……じゃあなんで」
セリナは少しだけ笑った。
「それでも前出るから」
レインは息を止めた。
「震えてる」
「吐きそうになってる」
「今にも逃げそう」
セリナが立ち上がる。
「でも最後は前に出る」
その言葉はレインの奥へ深く刺さった。
誰もそんなふうに見てくれなかった。
弱い。
情けない。
役立たず。
そればかりだった。
でもセリナは違う。
怖がっていることを否定しない。
その上で、逃げない部分を見てくれる。
「だから育てる」
セリナは木剣を肩へ担ぐ。
「立って」
「……はい」
「まだ終わりじゃない」
レインはふらつきながら立ち上がる。
脚が震える。
身体が重い。
でも少しだけ。
昨日より前を向ける。
「次は魔力制御」
「っ……」
レインの顔が青くなった。
それは今、一番怖いものだ。
暴走。
破壊。
制御不能。
宿を半壊させた記憶がまだ鮮明だった。
セリナはレインの表情を見ていた。
「怖い?」
「……はい」
「いい」
セリナは頷く。
「怖がれ」
「え」
「怖くなくなった時が一番危ない」
レインは少し驚いた。
強い人間は恐怖を捨てていると思っていた。
でも違う。
セリナは恐怖を理解している。
その上で前に進んでいる。
「魔力は力」
セリナが続ける。
「力は人を壊す」
「……はい」
「自分も、他人も」
重い言葉だった。
「だから制御する」
レインは頷く。
セリナは地面へ木剣を突き立てた。
「まず感じる」
「感じる?」
「身体の中」
レインは目を閉じた。
怖い。
でも意識を向ける。
奥底。
深い場所。
そこにある。
巨大な何か。
暗くて。
熱くて。
終わりが見えない。
ぞっとするほど膨大な魔力。
レインの呼吸が乱れる。
「っ……!」
「落ち着いて」
セリナの声。
「呼吸」
レインは必死に息を整える。
「吸って」
吸う。
「吐いて」
吐く。
「焦らない」
声が近い。
安心する。
少しずつ。
少しずつ。
暴れる魔力が静かになる。
レインはゆっくり目を開けた。
汗が酷い。
でも。
暴走していない。
「……できた」
「まだ入口」
セリナは言った。
でもその目は少し柔らかい。
「けど、ちゃんと進んでる」
レインの胸が熱くなる。
褒められるのは苦手だ。
慣れていない。
でも嬉しい。
セリナはそんなレインを見て、少しだけ視線を逸らした。
危ないと思った。
最近。
この男を見ると胸が変になる。
守りたい。
育てたい。
隣に立たせたい。
そんな感情が大きくなっている。
面倒だ。
本当に。
でも。
嫌ではなかった。
「今日の訓練終わり」
セリナが言う。
レインはその場に座り込んだ。
「……動けません」
「知ってる」
セリナが近づく。
「立てる?」
「無理です……」
少しだけ笑う声。
「仕方ない」
次の瞬間。
レインの身体が浮いた。
「えっ!?」
セリナが片腕で抱え上げていた。
「せ、セリナさん!?」
「騒がない」
「いやいやいや!?」
「軽い」
そのまま歩き出す。
周囲の冒険者たちがざわついた。
「紅蓮のセリナだ」
「男抱えてるぞ」
「珍しいな」
レインの顔が真っ赤になる。
「お、降ります!」
「落ちる」
「うっ……」
「静かにして」
レインはもう黙るしかなかった。
セリナは前を向いて歩く。
腕の中の熱が妙に近い。
レインの鼓動が伝わってくる。
若い。
生きている。
守りたいと思ってしまう。
それが少し怖かった。
でも。
その恐怖すら、今は嫌じゃなかった。




