20:守られたくなかった
雨は三日続いた。
レグナードの空は灰色の雲に覆われ、街全体が湿った空気に包まれている。
地下迷宮へ向かう冒険者の数も少なかった。
雨の日は魔物の動きが変わる。
迷宮内部の水位も上がる。
事故が増える。
だから経験の浅い冒険者ほど潜らない。
だが。
「行くわよ」
灰狼亭の入口でセリナが言った。
レインは反射的に背筋を伸ばす。
「……はい」
怖くないわけじゃない。
むしろ怖い。
まだダスクウルフの牙を夢に見る。
血の匂いも思い出す。
それでも、足は前へ出ていた。
セリナはそんなレインを横目で見て、小さく息を吐く。
「無理そうならすぐ帰る」
「大丈夫です」
「その台詞、信用度低いのよね」
レインは少しだけ苦笑した。
外へ出る。
石畳は濡れていた。
商人たちが荷車へ防水布を被せている。
パン屋から漂う香り。
市場で値段交渉する声。
この街は迷宮で生きている。
だが同時に、人が普通に暮らしてもいる。
レインは少しだけ、その景色が好きになり始めていた。
「……見てるわね」
セリナが言う。
「え」
「街」
レインは少し視線を逸らした。
「……なんか、安心するので」
「迷宮の後だから?」
「はい」
セリナは少しだけ笑う。
「正常ね」
二人は迷宮へ向かう。
今日は昨日より深く潜る予定だった。
三層入口付近。
新人なら普通はまだ行かない場所。
でもセリナがいる。
それだけで安全度が変わる。
迷宮入口。
冷たい空気。
石階段。
暗闇。
レインの身体が少し硬くなる。
セリナは気づいていた。
「呼吸」
「……はい」
レインは深く息を吸う。
少し落ち着く。
二人は地下へ降りた。
二層までは順調だった。
ゴブリン。
スライム。
バット。
弱い魔物ばかり。
レインも少しずつ戦えるようになってきていた。
怖い。
でも動ける。
鑑定で相手の動きを読む。
浅くても剣を当てる。
逃げない。
少しずつ、本当に少しずつだが前へ進んでいた。
「……よし」
セリナが呟く。
「今日は調子悪くない」
レインは驚く。
「そ、そうですか?」
「昨日よりちゃんと前見えてる」
その言葉だけで少し嬉しかった。
三層への階段前。
空気が変わる。
冷たい。
重い。
レインの肌が粟立つ。
「ここから先は、少し危険度が上がる」
セリナが真剣な声で言う。
「無理なら戻る」
「……行きます」
セリナは数秒レインを見る。
それから頷いた。
「じゃあ行く」
三層。
そこは二層までと明らかに違っていた。
通路が広い。
暗い。
魔力濃度が高い。
空気が重い。
レインは喉が乾く。
壁に残る巨大な爪痕。
砕けた盾。
古い血痕。
ここで多くが死んできたのだと分かる。
「……っ」
怖い。
セリナが前を歩く。
大剣を背負った長身の背中。
その背中だけが頼りだった。
少し進んだ時だった。
突然。
嫌な気配。
レインの身体が硬直する。
「止まって」
セリナの声。
低い。
鋭い。
その瞬間。
轟音。
壁が砕けた。
「っ!?」
巨大な影。
灰色の皮膚。
四本腕。
筋肉の塊。
「オーガ……!」
セリナが舌打ちする。
三層中位種。
本来なら複数パーティで対処する相手。
レインの呼吸が止まる。
大きい。
怖い。
本能が叫ぶ。
逃げろ、と。
オーガが咆哮する。
空気が震える。
レインの足が竦む。
「下がって!」
セリナが前へ出る。
火属性魔力が爆発する。
大剣が赤熱した。
轟!!
一撃。
凄まじい斬撃。
オーガの肩が裂ける。
だが止まらない。
怪物が拳を振り下ろす。
セリナが回避。
石床が砕ける。
レインは動けなかった。
怖い。
強すぎる。
今までと違う。
死ぬ。
本当に。
「レイン!!」
セリナが叫ぶ。
「後ろ!!」
レインが振り返る。
もう一体。
小型オーガ。
いつの間にか背後にいた。
「っ……!」
身体が凍る。
動け。
逃げろ。
剣を握れ。
頭では分かる。
でも身体が動かない。
恐怖で。
完全に。
その瞬間。
セリナが無理やり割り込んできた。
轟音。
大剣が小型オーガを吹き飛ばす。
だが。
隙ができた。
大型オーガの拳。
直撃。
セリナの身体が壁へ叩きつけられる。
「セリナさん!!」
血。
鈍い音。
レインの頭が真っ白になる。
セリナが立ち上がる。
でも動きが鈍い。
怪我をしている。
オーガたちが迫る。
レインの胸が苦しくなる。
まただ。
また守られた。
また傷つけた。
嫌だった。
怖い。
でも。
守られたくなかった。
この人に、これ以上傷を増やしたくなかった。
「……っ!!」
レインは無理やり足を前へ出した。
怖い。
震える。
吐きそう。
でも。
鑑定。
【大型オーガ】
【右脚損傷】
【重心偏移】
【視線誘導:セリナ固定】
見える。
少しだけ。
怪物の動き。
レインは剣を握る。
「ぁああっ!!」
叫びながら飛び込む。
怖いから。
叫ばないと動けない。
オーガが振り向く。
拳。
死。
レインは泣きそうになりながら、剣を振った。
浅い。
でも脚へ入る。
オーガが僅かによろめく。
その瞬間。
轟炎。
セリナの大剣が振り抜かれた。
赤熱した斬撃。
首が飛ぶ。
巨体が崩れる。
静寂。
レインは膝から崩れ落ちた。
「はっ……はっ……」
呼吸が乱れる。
怖い。
本当に。
でも。
今回は、少しだけ違った。
セリナが近づく。
傷だらけだった。
血が流れている。
それでも笑った。
「……今の、良かった」
レインの目が熱くなる。
「怖かったです……」
「知ってる」
「動けなくて……」
「でも動いた」
セリナがレインの頭を軽く叩く。
「怖くても前へ出た」
レインは涙を堪える。
「……守られたく、なかった」
セリナが少しだけ目を見開く。
それから。
本当に少しだけ。
優しく笑った。
「うん」
その一言だけで。
レインは、自分が少しだけ変われた気がした。




