18:傷だらけの背中
地下迷宮二層。
戦闘の後。
空気にはまだ血の匂いが残っていた。
ダスクウルフの死体が転がる石床。
赤黒い血。
砕けた牙。
壁に刻まれた大剣の跡。
レインは座り込んだまま呼吸を整えていた。
「はっ……はぁ……」
肺が苦しい。
心臓が痛いくらい鳴っている。
怖かった。
本当に。
足がまだ震えていた。
セリナは少し離れた場所で大剣を布で拭っている。
巨大な刃についた血を、淡々と落としていく。
その動きには無駄がない。
慣れている。
戦って、生き残ってきた人間の手だった。
「……」
レインは視線を落とす。
自分は違う。
怖くて固まった。
また守られた。
しかも、怪我までさせた。
「……セリナさん」
「何」
セリナは振り返らない。
「傷……」
「ああ」
脇腹を見下ろす。
ダスクウルフの爪が裂いた部分。
防具ごと切れている。
血は止まりきっていなかった。
「浅いわ」
「浅くないです……」
レインの声は小さい。
「僕のせいです」
沈黙。
セリナは少しだけ息を吐いた。
「冒険者は怪我する仕事」
「でも」
「レイン」
初めて振り返る。
切れ長の目が真っ直ぐこちらを見る。
「庇ったのは私が決めた」
レインは言葉を失う。
「だから、自分だけ責めない」
「……」
「それに」
セリナは少しだけ口元を緩めた。
「最後、前に出たでしょう」
レインは俯く。
偶然だ。
怖かった。
必死だった。
格好良くなんてない。
「……怖くて、動けませんでした」
「うん」
「身体が固まって」
「うん」
「逃げたくて」
「普通」
即答だった。
レインは顔を上げる。
「でも」
セリナが続ける。
「最後に足を出した」
「それは大きい」
レインは胸が苦しくなる。
この人は、ちゃんと見ている。
失敗だけじゃなく。
小さな努力も。
恐怖も。
逃げなかった瞬間も。
「……帰るわよ」
セリナが立ち上がる。
「今日はここまで」
「え」
「初迷宮で二層まで来たら十分」
レインは少し安心する。
正直、限界だった。
二人は迷宮出口へ向かった。
石通路を歩く。
レインは何度も後ろを振り返ってしまう。
暗闇が怖い。
何か出てきそうで。
そんなレインを見て、セリナは少し歩幅を落とした。
隣を歩く。
自然に。
「……迷宮、嫌いですか」
レインが聞く。
「嫌い」
即答。
「え」
「臭いし、寒いし、人死ぬし」
レインは少し驚く。
「でも潜る」
セリナは前を見たまま言う。
「生きるため」
その言葉は重かった。
綺麗事じゃない。
本当に、この人は迷宮で生きてきた。
死体を見て。
仲間を失って。
血を浴びて。
それでも生き残った。
レインはふと気づく。
セリナの背中。
防具の隙間から見える肌。
そこに古い傷跡がいくつもあった。
斬傷。
火傷。
噛み傷。
一本や二本じゃない。
「……」
レインは息を呑む。
こんなに。
こんな傷だらけで。
この人は笑っていたのか。
「どうしたの」
「……傷」
セリナは少しだけ目を細める。
「ああ」
特に隠そうともしない。
「多いでしょう」
「……はい」
「死に損なった数」
軽く言う。
でも軽くない。
レインは胸が締めつけられる。
「……痛かったですか」
セリナは少し笑う。
「全部痛いわよ」
当然みたいに言う。
「でも、生きてる」
レインは何も言えなくなる。
この人は、本当に強い。
力だけじゃない。
痛みを抱えて、それでも歩いている。
迷宮出口が見え始める。
外光。
人の声。
レインは少しだけ安心した。
地上へ出る。
夕方だった。
レグナードの街は赤く染まっている。
屋台の匂い。
荷車。
商人の声。
迷宮の冷たさとは別世界だった。
レインの膝から力が抜けそうになる。
「宿戻る前に薬屋」
セリナが言う。
「傷、治さないと」
「……はい」
二人は石畳を歩く。
途中、屋台街を通った。
焼き串。
スープ。
香辛料の匂い。
レインの腹が小さく鳴る。
セリナが気づいた。
「食べる?」
「え、いや……」
「食べなさい」
即決だった。
屋台へ向かう。
セリナは肉串と温かいスープを二つ買った。
「ほら」
「……ありがとうございます」
レインは両手で受け取る。
温かい。
迷宮帰りの身体に染みる。
一口飲む。
塩味。
肉の旨味。
野菜の甘み。
思わず息が漏れた。
「……美味しい」
「そう」
セリナも静かにスープを飲む。
二人で並んで屋台脇へ座る。
人通りは多い。
でも、不思議と落ち着いた。
「……セリナさん」
「何」
「なんで、僕を拾ったんですか」
セリナは少し黙る。
すぐには答えない。
「……似てたから」
「え」
「昔の、死んだ弟子に」
レインは息を止める。
セリナは空を見上げる。
夕焼け。
「真面目で」
「不器用で」
「無理して」
「最後だけ逃げない」
静かな声だった。
「だから最初、正直嫌だった」
「……」
「また死ぬんじゃないかって思った」
レインは胸が苦しくなる。
セリナは視線を戻す。
「でも」
少しだけ笑った。
「あなた、ちゃんと生きようとしてる」
レインは言葉を失う。
「怖がりながら」
「震えながら」
「吐きながら」
「それでも前へ出る」
レインの目が熱くなる。
「そういう人間は、嫌いじゃない」
夕暮れの風が吹く。
銀髪が揺れる。
レインはその横顔から目を離せなかった。
強くて。
綺麗で。
傷だらけで。
それでも誰かを見捨てない人。
その時、レインは初めて思った。
この人の隣に立てる男になりたい、と。




