17:動けない
地下迷宮二層。
空気はさらに冷たくなっていた。
石壁には淡い燐光苔が張り付き、湿った通路をぼんやり照らしている。
水滴が落ちる音。
遠くで響く魔物の唸り。
人間が本来いるべき場所ではない。
レインはそれを肌で感じていた。
「……」
手が震える。
ゴブリンを倒した後から、ずっとだ。
剣を握るたび、あの感触を思い出す。
肉を裂く音。
血。
崩れる身体。
吐き気はまだ完全に消えていなかった。
「休む?」
前を歩いていたセリナが振り返る。
「……だ、大丈夫です」
「顔色は全然大丈夫じゃない」
レインは苦笑する余裕すらなかった。
本当に怖い。
迷宮は恐ろしい。
さっきのゴブリンだって、セリナがいなければ確実に死んでいた。
自分は弱い。
嫌になるくらい。
「座るわよ」
セリナが壁際を指した。
二人は石壁近くへ腰を下ろす。
迷宮内の休憩所。
昔、探索者たちが簡易的に整備した空間だ。
石机。
古い焚き火跡。
魔導灯。
長年、多くの冒険者がここで息を繋いできたのだろう。
「水飲みなさい」
セリナが水筒を差し出す。
「……ありがとうございます」
レインは両手で受け取る。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ落ち着いた。
「……怖い?」
セリナが静かに聞いた。
レインは少し黙る。
強がれなかった。
「……はい」
小さく頷く。
「すごく」
セリナは何も笑わなかった。
「普通よ」
「でも、皆もっと平気そうで……」
「そんなことない」
即答だった。
「慣れてるように見えるだけ」
セリナは壁へ背中を預ける。
「怖くない人間なんて、ほとんどいないわ」
レインは少し驚く。
セリナですら怖いと思うことがあるのか。
「私だって怖い」
「……え」
「深層なんて、今でも嫌」
セリナは苦笑した。
「帰れないかもしれないって、毎回思う」
レインは静かに聞いていた。
この人は強い。
でも、恐怖がないわけじゃない。
怖さを抱えたまま前へ進んでいる。
「……どうして、行けるんですか」
「理由があるから」
短い答えだった。
レインは少し考える。
理由。
生きる理由。
戦う理由。
迷宮へ潜る理由。
「レインは?」
「……え?」
「どうして冒険者になったの」
レインは言葉に詰まる。
ちゃんと考えたことがなかった。
「……お金、欲しかったです」
ぽつりと言う。
「本買いたくて」
「食べるのも困ってて」
「働き口もなくて」
情けない理由だった。
でも本当だ。
「あと……」
レインは少し視線を落とす。
「変わりたかった」
セリナは黙って聞いている。
「今までずっと、何もできなくて」
「怖がって」
「逃げて」
「下向いて」
「だから……」
言葉が詰まる。
「少しくらい、ちゃんとした人間になりたかった」
沈黙。
迷宮の水音だけが響く。
セリナは少しだけ目を細めた。
「……真面目ね」
「え」
「そういうところ」
レインは困ったように俯く。
褒められているのか分からない。
「でも」
セリナは続けた。
「ちゃんと理由がある人間は、強くなる」
レインの胸が少し熱くなる。
その時だった。
カツ。
遠くで音がした。
セリナの目が鋭くなる。
「立って」
一瞬で空気が変わる。
レインも慌てて立ち上がる。
「何か来る」
セリナが大剣へ手をかける。
暗闇の奥。
低い唸り声。
そして現れた。
大きかった。
人間より一回り大きい灰色の狼。
赤い目。
鋭い牙。
筋肉質な身体。
「ダスクウルフ……」
セリナが低く呟く。
ゴブリンとは違う。
空気だけで分かる。
危険だ。
レインの身体が凍る。
狼型魔物は速い。
新人殺しとして有名だった。
「下がって」
セリナが前へ出る。
だが、その瞬間。
さらに二体。
左右から現れる。
「っ……群れ」
セリナの眉が寄る。
三体。
この階層では多い。
しかも通路が狭い。
レインの呼吸が乱れる。
怖い。
本当に。
ダスクウルフたちが唸る。
獲物を見る目。
殺意。
「レイン」
セリナが低く言う。
「絶対に走らない」
「……っ」
「背中を見せた瞬間、死ぬ」
レインは震えながら頷く。
でも身体が動かない。
怖すぎる。
狼たちがじりじり距離を詰める。
セリナが大剣を構える。
火属性魔力が刀身へ走る。
「来るわよ」
次の瞬間。
ダスクウルフが跳んだ。
速い。
レインの視界から消える。
轟音。
セリナの大剣が狼を叩き落とす。
壁が砕ける。
火花。
熱風。
強い。
圧倒的だった。
でも残り二体。
左右から回り込む。
「レイン!!」
セリナが叫ぶ。
一体がレインへ飛びかかった。
「っ……!」
身体が動かない。
怖い。
牙。
爪。
死。
全部が近い。
頭が真っ白になる。
逃げなきゃ。
でも足が動かない。
その瞬間。
ドンッ!!
熱風。
セリナが無理やり割り込んできた。
大剣で狼を弾き飛ばす。
だが完全には防げない。
狼の爪がセリナの脇腹を裂いた。
「っ……!」
血が飛ぶ。
レインの呼吸が止まる。
「セリナさん!!」
セリナはすぐ体勢を立て直す。
強い。
でも傷は浅くない。
「下がって!」
再び狼が迫る。
セリナが迎え撃つ。
轟音。
火属性魔力。
狼が焼ける。
残る一体。
低く唸りながら距離を取る。
セリナの呼吸が少し荒い。
レインは動けなかった。
怖くて。
足が震えて。
身体が固まって。
結局また守られた。
しかも怪我までさせた。
「……っ」
情けない。
本当に。
その時。
視界に文字が浮かぶ。
【鑑定:ダスクウルフ】
【右前脚:損傷】
【敏捷低下】
【突進前動作:右肩沈下】
レインの目が開く。
狼が動く。
右肩が沈む。
来る。
「……っ!!」
気づけば身体が動いていた。
怖い。
でも。
セリナを傷つけたまま終わりたくなかった。
「ぁああっ!!」
レインが前へ出る。
狼が飛ぶ。
レインは恐怖で泣きそうになりながら、必死に剣を振った。
偶然。
本当に偶然。
でも剣が狼の脚へ当たる。
体勢が崩れる。
その瞬間。
セリナの大剣が振り下ろされた。
轟音。
狼が沈む。
静寂。
レインはその場へ崩れ落ちた。
「はっ……ぁ……」
呼吸が乱れる。
怖い。
まだ震えている。
でも。
セリナが死ななかった。
「……レイン」
セリナがこちらを見る。
汗。
血。
乱れた銀髪。
それでも綺麗だった。
「今の、ちゃんと動いた」
レインの目から涙が落ちる。
「……動けなかったです」
「途中から動いた」
セリナは近づく。
「それで十分」
レインは俯く。
情けない。
でも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
前へ進めた気がした。




