16:初めての地下迷宮
朝。
レグナードは霧に包まれていた。
都市中央にそびえる巨大迷宮塔は、白い靄の向こうに黒い影だけを見せている。
地下迷宮都市レグナード。
この国境都市は、迷宮によって生きている。
深層から採れる魔石。
希少鉱物。
魔物素材。
特殊薬草。
それらが物流を動かし、商会を肥やし、国家を支えていた。
だから人が集まる。
冒険者。
商人。
職人。
料理人。
貴族。
全員が、迷宮の利益に群がっていた。
「……」
レインは迷宮前広場を見上げていた。
巨大だった。
石造りの外壁。
何十人もの冒険者。
荷車。
武装した兵士。
迷宮入口から漂う冷たい空気。
そこだけ世界が違うみたいだった。
「顔、真っ青」
隣でセリナが言う。
「……だ、大丈夫です」
「昨日も聞いた」
即答だった。
レインは口を閉じる。
正直、大丈夫ではない。
怖い。
かなり。
地下迷宮。
冒険者なら誰でも知っている場所。
そして、多くが死ぬ場所。
レインは無意識に剣の柄を握った。
安物の片手剣。
まだ馴染まない。
重い。
「今日は浅層だけ」
セリナが言う。
「訓練も兼ねる」
「……はい」
「死ぬほど深くは潜らない」
レインは少し安心する。
少しだけ。
「でも、迷宮は迷宮」
セリナの目が真っ直ぐになる。
「油断したら死ぬ」
レインは小さく頷いた。
二人は入口へ向かう。
石階段を降りる。
空気が変わった。
冷たい。
湿っている。
薄暗い。
迷宮独特の匂いがした。
土。
血。
湿気。
魔力。
人が本能で嫌がる空気だった。
レインの背中に冷たい汗が流れる。
「……っ」
「呼吸」
セリナが静かに言う。
「浅くなってる」
「……はい」
レインは必死に息を整える。
情けない。
まだ入口なのに。
でも怖いものは怖い。
迷宮は生き物みたいだった。
飲み込まれる感覚がある。
少し進むと、周囲の冒険者も減り始めた。
足音が響く。
水滴が落ちる音。
どこか遠くで、魔物の唸り声。
レインの喉が乾く。
「……セリナさん」
「何」
「皆、こんな場所に毎日潜ってるんですか」
「そう」
セリナは平然としていた。
「慣れる?」
「多少は」
少し考える。
「でも、慣れすぎた人から死ぬ」
レインは黙る。
セリナは迷宮を舐めていない。
だから生き残ってきた。
「止まって」
突然セリナが言った。
レインの身体が硬直する。
セリナは静かに前を見る。
「三体」
「え」
「ゴブリン」
レインは何も見えなかった。
でも次の瞬間。
暗闇から低い唸り声。
小柄な影が現れる。
緑色の皮膚。
濁った目。
錆びた短剣。
ゴブリン。
「っ……!」
レインの呼吸が止まる。
本物だ。
迷宮の魔物。
生きている。
臭い。
醜い。
怖い。
「落ち着いて」
セリナは前へ出る。
大剣を片手で抜いた。
重い金属音。
その瞬間。
空気が変わる。
ゴブリンたちが一瞬怯む。
強者の圧。
レインでも分かる。
「まず見る」
セリナが低く言う。
「焦って突っ込まない」
ゴブリンが叫びながら飛び込んできた。
速い。
レインの身体が震える。
でも。
次の瞬間。
轟音。
セリナの大剣が横薙ぎに振られる。
一撃。
ゴブリン二体が吹き飛んだ。
壁へ叩きつけられる。
骨が砕ける音。
レインの顔から血の気が引いた。
強い。
圧倒的だった。
最後の一体が恐怖で後退る。
だがセリナは追わない。
「レイン」
「っ……!」
「行きなさい」
レインの呼吸が止まる。
「え」
「一体だけなら死なない」
ゴブリンが唸る。
短剣を構える。
レインの足が震える。
怖い。
怖い。
本当に。
「む、無理です……!」
「知ってる」
セリナは即答した。
「だからやるの」
レインは剣を握る。
手汗で滑る。
ゴブリンが飛び込んできた。
「っ!」
レインは反射的に剣を振る。
遅い。
素人丸出し。
ゴブリンの短剣が腕を掠めた。
「ぁ……!」
痛い。
血が出る。
レインの身体が固まる。
怖い。
死ぬ。
「目を逸らさない!」
セリナの声。
レインは必死に前を見る。
ゴブリンが再び飛び込む。
その瞬間。
視界に文字が浮かんだ。
【鑑定:ゴブリン】
【筋力:低】
【敏捷:低】
【恐怖状態】
「……え」
一瞬、動きが見えた。
ゴブリンの踏み込み。
重心。
腕の動き。
レインは反射的に身体を横へ動かす。
短剣が空を切る。
「っ!」
レインの剣が偶然みたいに振られた。
ザシュ。
浅い。
でもゴブリンの肩を切った。
悲鳴。
レインの呼吸が乱れる。
怖い。
でも。
逃げたくなかった。
「……っ!」
もう一度。
震える手で剣を握る。
ゴブリンが突っ込んでくる。
レインは必死に前へ出た。
怖い。
でも。
最後だけは逃げない。
「ぁああっ!!」
剣が振られる。
偶然でも。
不格好でも。
刃がゴブリンの首へ入った。
鈍い音。
血。
崩れる身体。
レインの呼吸が止まる。
倒した。
本当に。
「……ぅ」
次の瞬間。
吐いた。
胃の中の物を全部吐き出す。
苦しい。
臭い。
手が震える。
「……はっ……ぁ……」
涙まで出る。
情けない。
格好悪い。
セリナは何も言わなかった。
ただ静かに近づく。
背中へ手を置く。
「呼吸」
低い声。
「吸って」
レインは必死に息を吸う。
「吐いて」
少しずつ呼吸が戻る。
セリナは水筒を渡した。
「飲みなさい」
レインは震える手で受け取る。
「……すみません」
「普通よ」
セリナは平然としていた。
「最初は皆そう」
「……」
「吐かない方が危ない」
レインは少しだけ救われる。
セリナは死体を見る。
「ちゃんと前に出た」
短い言葉。
でもレインには十分だった。
「怖かったです……」
「うん」
「死ぬかと思った」
「そうでしょうね」
セリナは否定しない。
「でも、生きてる」
レインはゴブリンの死体を見る。
怖い。
でも。
ほんの少しだけ。
自分が前へ進んだ気がした。
迷宮は恐ろしい。
自分は弱い。
震えるし、吐くし、格好悪い。
それでも。
セリナは見捨てなかった。
だからレインは、もう一度だけ剣を握ろうと思えた。




