14:見捨てない理由
夕暮れのレグナードは赤かった。
西日が石造りの街を染め、巨大外壁の影が長く伸びている。
市場の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。
露店商たちは店じまいを始め、荷馬車が倉庫街へ向かっていく。焼きたてのパンの匂いに混じって、炭火焼きの肉や香草スープの香りが街路を漂っていた。
人が生きている匂いだった。
レインはその空気を感じながら、セリナの少し後ろを歩いていた。
人混みはまだ苦手だ。
でも、最初よりは少しだけ呼吸が楽になっている。
セリナがいるからかもしれない。
「……疲れた?」
不意にセリナが振り返る。
「え」
「顔」
レインは慌てて背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫です」
「その返事、信用度低いのよね」
少し笑う。
レインは困ったように視線を逸らした。
最近、セリナはよく笑う。
もちろん豪快ではない。
小さく。
疲れたみたいに。
でも柔らかく。
その表情を見るたび、レインの胸は少し苦しくなる。
「座る?」
セリナが広場脇の石段を指した。
中央噴水の近く。
夕方の人通りも多く、子供たちが走り回っている。
「……はい」
二人は石段へ腰掛けた。
噴水の水音が静かに響く。
レインはぼんやり広場を見る。
パンを抱えた母親。
荷運びの青年。
食堂帰りの冒険者。
誰もが普通に生きていた。
でも、その“普通”を維持するために、迷宮で命を張る人間がいる。
「……セリナさん」
「何」
「どうして、あんなに怒ったんですか」
昼間の市場のことだった。
薬草採取の少女。
商人。
あの時のセリナは、珍しく感情を表に出していた。
セリナは少し黙る。
広場の噴水を見る。
「……昔ね」
静かな声。
「似たような子がいたの」
レインは黙って聞く。
「まだ十六くらい」
「痩せてて」
「生意気で」
「すぐ無茶する子」
少しだけ笑う。
懐かしむみたいに。
「強くなりたかったのよ」
夕陽がセリナの横顔を照らす。
「早く上に行きたかった」
「稼ぎたかった」
「認められたかった」
レインの胸が少し痛くなる。
どこか、自分と似ていた。
「私は止めた」
セリナは続ける。
「もっと準備しろって」
「飯を食えって」
「死ぬなって」
「でも、聞かなかった」
沈黙。
広場の笑い声だけが遠くに聞こえる。
「……死んだんですか」
レインが小さく聞く。
セリナは頷いた。
「深層へ無理して潜って」
その声は静かだった。
怒りではない。
諦めでもない。
もっと重い何か。
「助けに行った時には、もう遅かった」
レインは何も言えない。
セリナは強い。
でも、全部を救えるわけじゃない。
むしろ強いからこそ、“間に合わなかった瞬間”を何度も見てきたのだろう。
「……だから嫌なの」
セリナがぽつりと言う。
「若い子が、自分を雑に扱うの」
レインは視線を落とした。
思い当たることがありすぎた。
自分もきっと、同じ側だ。
弱いくせに無茶して。
怖いくせに迷宮へ行って。
壊れかけている。
「……俺も」
レインが呟く。
「同じに見えてますか」
セリナは少し考える。
「少し」
正直だった。
レインは苦笑する。
やっぱりそうなのか。
「でも違う」
「……え?」
「あなた、怖がってるでしょう」
レインは固まる。
「怖がれる人は、まだ止まれる」
セリナは噴水を見る。
「本当に危ない人間は、“死ぬ感覚”が壊れてるから」
レインは静かに聞いていた。
セリナはきっと、そういう人間を何人も見てきた。
戦場で。
迷宮で。
生と死の境界で。
「……セリナさんは」
レインが恐る恐る聞く。
「壊れてないんですか」
少しだけ風が吹いた。
銀髪が揺れる。
セリナは笑った。
でも、その笑顔は少し寂しい。
「半分くらいは壊れてるかも」
「……」
「普通の生き方、もう分からないし」
その言葉が胸へ刺さる。
セリナは“最強”だ。
でも同時に、普通から遠ざかってしまった人でもある。
「昔はね」
セリナが続ける。
「もっと普通だったのよ」
「恋愛もしたし」
「将来の話もした」
「結婚とか、子供とか」
レインの心臓が少し跳ねた。
知らないセリナ。
今の彼女からは想像できない。
「でも、全部なくなった」
静かな声。
「仲間が死んで」
「裏切られて」
「残ったのは戦う力だけ」
レインは何も言えなかった。
セリナは強い。
でも、それは幸せの結果じゃない。
失ったものの積み重ねだ。
「……それでも」
レインはゆっくり言う。
「セリナさん、優しいです」
セリナが少し目を丸くする。
「優しくないわよ」
「優しいです」
レインは珍しく視線を逸らさなかった。
「見捨てないから」
沈黙。
噴水の音。
遠くの市場。
夕焼け。
セリナはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「……あなた、変なところ真っ直ぐよね」
「え」
「普通、もっと気を遣う」
レインは困った。
そんなつもりはなかった。
ただ、本当にそう思っただけだ。
「……でも」
セリナがぽつりと言う。
「見捨てたくないのは、本当」
その横顔は少し疲れていた。
でも。
どこか安心したみたいにも見えた。
レインは胸の奥が温かくなる。
この人は、ちゃんと傷ついている。
ちゃんと苦しんでいる。
それでも人を見捨てない。
だから綺麗なんだ、とレインは思った。
「……腹減った」
突然セリナが言った。
空気が少し緩む。
レインが小さく笑った。
「急ですね」
「真面目な話すると、お腹空くのよ」
セリナは立ち上がる。
「今日は麺にしましょうか」
「麺?」
「東方料理」
セリナは少し楽しそうだった。
「最近、港経由で入ってきた店があるの」
「出汁文化が変わってて面白い」
レインは少し驚く。
セリナは本当に食べることが好きらしい。
二人は夕暮れの街を歩く。
石畳。
灯り始める魔導灯。
食堂の匂い。
隣を歩くセリナの横顔を見る。
綺麗だった。
強くて。
優しくて。
少し壊れている人。
レインはまだ、この感情に名前を付けられない。
でも。
この人が笑っていると、嬉しいと思った。




